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自虐の歌(乱文)

新幹線の事件の犯人に関する報道を見て少し調べたけど、何だかもっと犯人について知りたいなと思ってしまう。自分も親に、「早く普通の生活に戻りたい」って言われたことがあるし、顔もどこか似ている気がする。

関係あるかどうかだけど、例に漏れず犯人は祖母の家?でパソコンをやっていたみたいな記事もあって。

初期には『2ちゃんねる(現5ちゃんねる』って、殆どが自虐についての書き込み大会だったと思う。それを了解して書き込みしたりROMってる人が多かったと思っていた。昔はもっと分かり易いかたちだったと思うんだけど、使う人も増えたのか、ずいぶん先鋭化したなって思う。

厳しくなったその自虐が、自分のことを言われてるって思うのは、やっぱり同じカテゴリーの人間が集まるからだろうか(これは普通にリアルで集まって話してる時にもあって、"俺はダメだ"という発言が、主語をもたないときに周りにダメージを与える。いわゆるバッドトリップという場合もそう)。 

例えば、"モテない"とか主張するのは普通自虐だと思うんだけど、主語がないから解らなくなっている。"チビ・ハゲ・デブ煽り"とかも、普通に考えると自分のことを回りくどく言っていると思う。たとえ心にイチモツがあったとしても、"ああじゃなくてよかった"って、自分の身体や親に感謝する後ろめたさくらいのものだと思うけど(わざわざモメたいのか?)。ほか、実体験に基づいている!といっても、もしパートナーと満足した関係を築けている間にブサイクに迫られても、ムカつくところは"ブサイク"な要素ではなくて、その行為だと思いますし(だってそうじゃない?)、というか、そんな行為は軽くいなせる余裕があると思うんだよな。それに、その満足いっている関係を無理やり壊そうとしたら、ブサイクとかに限らず嫌われるのは必至だと思う。

というわけでここから別の話

人には共通認識、共通了解みたいのがあって、それをうまいこと会得出来なかったら変な人になって嫌われる可能性がある。

でもそういうのが数多の人の中にあるっていうことは、わりと奇跡的なことだって思う。だって人は狼に育てられると狼になるらしいから。

それを養うのは家族と、テレビ、昔は宗教だと思っていて、その意味での宗教は本当に偉大なものだと思うわけです。だからブラジル人とかが休日に教会に集まっているのを見るとなんだか切ない気持ちになる。彼らはわりと良かったものをまだ上手く活用しているような気がして。自分たちは無くしてしまってる。

テレビも新聞も雑誌もインターネットも見てないと、誰が美人か、誰がブサイクかなんてわからないんじゃないのかな?(筒井康隆にそんなのがあった気がする)

身のこなしが美しいとか、髪が艶々で美しいとかはあるのか(身のこなしって鏡のない時代にはどんなのがカッコ良かったんだろう)。

自閉症とかアスペルガーって、教育の問題じゃないから!とは解ってるつもりなんだけど、これは世間には全然浸透していないよね。本当は分かり合えるところがあること自体が奇跡的なのになー

生まれてからずっと嫌われていたら、嫌われないことが良いことだという世間はとても嫌だろうな。その場合は嫌われたくないなんて思わないかもな。でも人を殺すのは何だかカッコつけようとしている気がするな。食べるものがないなら仕方ないけど、今は人が死にたくないという気持ちを利用しているのがほとんどだと思うな。それでほんとに殺しちゃうのは、やっぱり自分のことを詳しく報道してくれるからなのかな。できないと思ってナメた態度で来られるからかな。というか人を殺すドラマとか漫画とか多すぎるんだよな。クスリをやってるドラマとか漫画はほとんどないのにな(あるのかな)。
でも、詳細な報道はやった方がいいと思うし、本当はこうなる前に、"一触即発の家庭"みたいに取材するべきだと思うな。ちょっとは冷静になれるんじゃないのかな。

最終的には生きたいって気持ちがあれば大丈夫だと思っていて、犯人にも生きたい気持ちはあったみたいだから、そこをもっとうまく刺激できれば良かったのかなと思う。"刑務所で生きる"みたいにカッコつけようとしなくていいのにな。たぶんしんどいと思うけど。

自閉症とかアスペルガーを治すには、脳によっぽど刺激が入る体験や、物理的なものがないとダメな気がする。




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