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僕は子どもがほしいのかもしれない

もともと子どもが欲しかった僕

3人兄弟の次男として生まれ、両親の頑張りで何不自由なく幸せな子ども時代を過ごした僕。将来は父のように海外に出て活躍し、自分の家庭にも同じ様に不自由のない暮らしをして欲しいと、自然に思った。
そして、それを幸せのカタチとして思い描いた。

素敵な妻にめぐり逢い、若手のうちに夢の海外赴任も叶った。
でも、妻は子どもを持つことには、少なくとも肯定的ではない。

妻は決して子ども嫌いではない。ただ、保育士の現場を経験した他、免許取得の過程で学んだ「子どもを生み育てることの大変さ、難しさ」を知った。
また、おそらく日本国籍になるであろう子どもらの不幸を嘆いた。
老齢者の方向を向いた的はずれな子育て支援政策、子どもを産めという社会からの圧力、金銭的問題、夫婦の時間、自分の時間、女性だけが受ける出産によるダメージ、出産後に上がる離婚率。何度か自然発生的に子どもをどうするか話し合いをしたが、その度に出てくる理由は違う。

今の時代は「選択子なし」の方だって珍しくないから、こういう言い方はもう間違いかもしれないけれど、結婚するまで、そして結婚してからもしばらくは「自然と」子ども欲しいなと思っていた。

妻から「あまり欲しいと思えない」と泣きながらに訴えられたときは、少し戸惑ったけど、子どもが欲しくて妻と結婚したわけではないから、「別にそれでも構わない。二人で楽しくやっていこう」と答えた。嘘ではないし、その場を取り繕ったわけでもなかった。

子どもを生み育てるってどういうことなのか、勉強した

妻の意見を聞いて、妻がどれくらい真面目に子どもについて考え、いろいろな情報収集をしていたのか、自分は話を聞くしかできないくらい無知だった。裏を返せば、そのくらい「自然に」子ども欲しいなって思っていた。

だから、Twitterやブログ、書籍やニュースを読み漁っていろいろな意見に触れた。もっぱら、子どもが欲しくないという方々の考えや意見を吸収した。

当時は、妻と同じ目線に立ちたいと思っていたから、そういう行動をしているのだと自分でも思っていた。妻と同じ考えになれば、スッキリと「選択こなし」としてまた歩き出せると思った。それくらいに「子ども」は絶対条件ではなかった。妻といることのほうがずっと大事だった。

欲しいは理想、欲しくないは現実

ただ、子どもがほしくないという意見に触れ続けていると、当然反対の意見も学んでバランスを取りたくなる。つまり、「子どもが欲しい」と思う人々の考えだ。これが大変だった。子どもが欲しくない人は、冒頭に妻の意見の一部として紹介したように具体的な「ここが嫌、ここがダメ」が明確にある。一方で、子どもが欲しい人は、ざっくりいうと「可愛いから、なんとなく新婚旅行も終わって頃合いだから、育ててみたいから」などなど、よくわからない。理論的じゃない。「可愛くなかったら?思うように育たなかったら?」答えは「・・・。やってみないとわからない!」

自分なりに「子どもが欲しい」と思える理由を探した。考えれば考えるほど謎は深まった。上の人達みたいなふわっとした答えしか出てこなかった。
行き着いたのは「大人のエゴ」。生まれてくる子どもの意見や気持ちなど考えちゃいない、可愛いから、ほしいから、生む。何なら、生まれちゃった。

子どもなんていらないよ、って言ってほしかったのかも

妻は絶対に産まないとは一度も言っていない。ただ生みたいと思えないというスタンスに変化はない。一方の僕は、漠然と欲しいと思っていたのから、いろいろなリスクやデメリット(?)を学んで、あまり欲しいと思えないと妻に寄り添い、それから「生みたい理由」を探してるうちにニュートラルになった。ニュートラルだと思っていたが、最近、やはり子どもがほしいと心の何処かで思っているんじゃないかと気づき始めた。

少し前、妻の生理が来ず、彼女は気分を落とし、かなり神経質になっていた。予定通り来ないことよりも、妊娠の可能性を案じてだ。
それを聞いたときに、今までは寄り添えていた僕だったが、今回は、悲しかった。「妊娠してたらどうしよう」と彼女がこぼしたときに、「ああ、彼女は明確に生みたくないと思っているんだ」と思った。
結局翌々日には遅れていた生理も来はじめ、何事も無く過ぎ去った。
「生理来てた!」と嬉しそうに言われた朝に、いつもなら「良かった!安静にしてなね!」といえたはずなのに、「良かった」って言えなかった。
やっぱりどこか、悲しかった。「そっかそっか」しか言えなかった。

そこからずっっっと何も手につかない。
今思い返せば、本当に子どもがいらない、彼女さえいればいいと思えるなら、彼女から本気の訴えを聞いたその時に答えは出てたはず。

色々な意見に触れて勉強したのも、
子どもが欲しい理由を探したのも、
妻に子どもがほしい自分の意見をぶつけよう、
そうすれば考え直してくれるはずと、
心の何処かでそう思っていたからなのかもしれないと、
最近薄々気づきはじめ、それが余計に悲しかった。

妻の目線に立って、寄り添って同じ方向を歩むために
費やしてた時間は、「妻のため」というフェイクをかぶった
「エゴ」だったかもしれないから。

説得はしたくない

子どもを産むのは女性だ。重い体で不自由を強いられ、痛みと命の危険にさらされながら必死に産み落とすのは女性だ。だから、男性が欲しいから生んでくれと、女性を説得するのはすごく気持ちが悪い。仮に女性が、「わかった、そこまで言うなら」と最終的に自分の判断で決断したとしても、僕には「無理やり産ませた」という気持ちが残る気がしている。

ただ、言い訳がましいけど、説得がしたいわけではない。
生殖機能の検査を受けたわけでもなんでもないけど、
生めるのに生まないと(僕からすれば)諦めるからには、
仮に結論が変わらなかったとして、自分の考えは正直に伝えたい。

子どもが欲しい理由はどれもふわっとしてるって書きました。
今となってはその理由が少しわかります。批判の種は過去と現実にあります。目に見えてるんです。ダメ出しはいくらでもできるんです。
未来の話は、見えないんです。そこに希望を抱くか不安を抱くか、いずれにしてもふわっとするしかないんです。

僕は子どもが欲しい理由はどこまで言っても大人のエゴだと、
一旦は結論付けました。でも、最近は少し変わりました。

なぜ子どもがほしいのか、もしそう聞かれたら、
それが僕の描いた幸せのかたちだから。
そう答える気がします。

少子高齢化で負担の大きい社会、子どもが生きづらい世の中、再び冷戦の様相を呈してきた不安定さを極める世界情勢、そんな時代に子ども生むなんて無責任だし、可愛そう。そんな横やりが入りそうですね。

でも、僕らが生きている平成令和だって、昭和のイケイケドンドンな時代から比べたら相当悲惨じゃないですか?それなのに、僕は今幸せで、生きていて良かったと思えて、生んでくれてありがとうという気持ちで一杯です。
それは素敵な友人に出会えて、最高の妻に恵まれ、頼もしい会社の同僚と刺激的な日々を送っているからです。

そんな風に生きていける幸せのバトンを繋ぎたいと思うのは、
そんなにおかしなことでしょうか。

バトンがつながらなかったらどうするの。
死ぬ気で繋ぐんです。文字通り本当に死ぬかもしれない。
それでも繋ぐ。繋ぎたい。そう思える人が子どもを産む決意をするのかもしれない。だから余計に、妻に「子どもがほしい=死んでもいいから子を生んでくれ」とは言えるわけがない。それに、最愛の妻と引き換えにしてまで欲しい物なんてあるはずもない。なのに、最高に幸せなこの人生、自分だけで享受して終わらせずに、次の人にも渡したい、そんな気持ちにかられてしまう、辛くて辛い悩みの毎日です。

今後の話し合いで、妻がどうしても生みたくないとなった場合、
離婚になるんでしょうか。まだそんなところまでは考えられません。
妻と離婚して子どもを生んでくれる女性を探すんでしょうか。
そんな事考えたくもありません。もともと描いた幸せのかたち、
これは修正可能なのか、自分との相談にはまだ時間がかかります。

今の生活はものすごく愛おしくて幸せです。
妻が元気で楽しそうに日々を過ごしているのを、
そばで眺められるだけで心がホッとします。
今は、それと子どもを諦めたときの心にチクッとくるやつの
バランスを見極めているところです。

仮に妻に自分の気持ちを打ち明けるとしても、
彼女自身は納得していないけど、相手のためにやむなく・・・
と言う形で追い込むことの無いよう、くれぐれも注意したいと思います。


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