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北極星

 低血圧の俺はいつも朝はコーヒーのみ。本当はブラックで飲みたいところだが、血糖値を上げないと通勤列車には耐えられない。冷蔵庫を開けるとカフェオレが入っている。
「おーい、いくら砂糖とミルクを入れるとはいえ、カフェオレは邪道だろう。」
「カフェオレの方が効率が良い、と言ったのは誰でしょう?」
朗らかな声で彼女が返事をする。そういえばそうだったかもしれない、時間が惜しい、そのまま俺はカフェオレを片手に準備をする。
「今日は飲み会だから遅くなるよ。」
「君はお酒が弱いから、あまり飲みすぎないでね。もう若くないんだから、無理は禁物。あまりに遅いと迎えに行くよ。」
彼女は笑って応える。
「じゃぁ、行ってきます。」
彼女の返事はなく、俺は家を出た。

 久々の大学時代の友人との飲みの席。仕事の愚痴から、いつの間にか懐かしい話、今の家族へと話は変わっていく。
「お前、まだ子供は小さかっただろう。こんなに飲んでいて嫁さんに怒られないのか?」
「うちは恐妻家だから、きちんと役割設定がされているんだ。お互いお休みの日もある。今日は俺が休みの日。その代わり今週の日曜日が嫁さんの休みの日。俺は夜のみ、嫁は1日。ずるいよなぁ。」
「それならまだホワイト企業だ。俺も見習わないと。」
「……お前たち2人が結婚するとはな。あんなに大学時代喧嘩ばかりしていたのに。でも、まさかあんなことに……あ、いや、なんでもない。そういや、あいつは元気かな?今日はドタキャンだから、次回はあいつの奢りだな。」
友人の笑顔が引き攣っている。

 友人がトイレに立つと
「もういい加減にしないと歩いて帰れないよ。久々といっても明日も仕事なんだから、今日はもうお開きにするべきじゃない?」
彼女が迎えにきたようだ。心配性はいつまでたっても治らない。

 彼女の言うように、俺たちはお開きにして、お店で別れた。
「なぁ、直樹。子供がいると大変だが、楽しいぞ。そろそろ良いんじゃないか?」
友人の別れ言葉。惚気じゃなく、俺を心配してくれている。でも俺は今の生活に満足しているんだ。

 上限の月が地平線に沈みそうになる中で、星が綺麗に輝いている。
「月が綺麗だ。カシオペア座も良く見える。明日も天気は良さそうだな。」
「もしや夏目漱石?星座なんて柄じゃない。」
彼女は笑って応える。
「なぁ、俺たちはずっとこのままでいられるよな?」
ずっと心の奥に閉まっていた言葉を、酔いと綺麗な夜空に任せて尋ねる。
「子供欲しくないの?」
「今で充分幸せだ。」
「君はいつまで逃げるのかな?君はいつまで私を束縛するのかな?」
視線を地面向け、応えることが出来ない。
「私はシュレディンガーの猫。もうここに居場所はないの。」
「シュレディンガーの猫ならば、まだ確定されていないじゃないか。それに俺は星の王子様のように箱を書いてもらったんだ。」
「いつまでも誤魔化していては駄目だよ。もう君は箱の中身を見ている。」
急にこめかみが痛くなる。彼女の亡骸がフラッシュバックする。そんなわけがない。彼女の姿は見えないが、いつも彼女は返事をしてくれるじゃないか。
「夜は禁止していたけど、コーヒー飲んで良いよ。」
彼女が優しい声で話しかける。
俺は自販機でブラックコーヒーを買い、一口飲む。いつもより苦味が強く感じた。
「もう君は俺を残して消えるのか?」
震える声を止めることが出来ず、尋ねる。返事はない。俺は慌てて、周りを見渡す。
「愛する人とその子供。私が君に与えられなかった幸せを手に入れてね。でも私への愛も残しておいて。」
北極星から聴こえた気がした。それ以降、どんなに話しかけても彼女の声は聞こえない。最期まで君は猫のようにわがままで、優しくて心配性だ。


 あれから5年。俺は再婚し、子宝にも恵まれて、君が願った幸せを手に入れた。
ベランダに出て、北極星を眺める。
「君はずるいよな。北極星はずっとそばにいてくれる。忘れられるわけがないだろう。」
コーヒーを飲みながら、微笑みそっと独りごちる。あの日のような苦味は感じない。妻が俺のために買ってくれたコーヒーメーカーは優秀だ。

「ちょっとー、夜にコーヒー飲んだら、寝れなくなるでしょう。やっと子供が寝たと思ったら、大きな子供が残っていた。ほら、片付け手伝って!今は男も家事をするのが常識よ。」
妻に怒られて、俺は北極星に「安心した?」と語りかけた。


天高く君中心に動く星

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眠れない夜に

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