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批評家におなりなさんな。

「批評家にも評論家にもおなりなさんな」

大学院時代、口酸っぱく教授に
言われた言葉だ。

「批評家の言うことを聞いてはいけない。これまでに批評家の銅像が立てられたためしはない。」
シベリウスもこう言っている。

有名人の、芸能人の、何かの
ニュースが出れば悪口
有名ブロガーさんやインスタグラマーが
何かを投稿すれば中傷、
理由のない非難。

いつからみんな、そんなにも他人に
口出しできるご身分になったのだろう。と思う。
あなたに何か危害を加えた相手なのか。

YouTuberであり、『共感SNS』も
書いてモテクリエイターという肩書きをつくった、ゆうこすさんのインスタの
ストーリーを見ていると、時々、
本人に送る必要のない悪口を
書いている人がいる。

この間は、わざわざ、
ゆうこすさんの飼い犬の
もちちゃんに対し「ぶさいくな犬だな〜 殺処分されて死ねばいいのに」と
コメントしている人がいたそうで、
ゆうこすさんも悲しんでいた。

先にこれを書いたのは
まず、最近、
批評と悪口をはきちがえている
人が多い気がするからだ。
批評家におなりなさんな
を書く前に、批評と悪口は決定的に違うことを考えたい。

批評と批判は違う

ゆうこすさんの、この一件の同日(6/9)、ハフポスト日本版の
ニュースに、フィギュアスケートの
エフゲニア・メドベージェワ選手に
対し、
「悪魔よ、日本から出て行け。日本で
お前の顔を見たいと思っている人は
いない。日本人は皆お前を嫌っている。ロシアに帰れ!日本から出て行け、そしてTCC(トロントクリケットクラブ)から出て行け!」など
(ハフポスト様より引用)と書かれた紙(もはや手紙などというまでもない)が届いたニュースが出た。

この件に関し、メドベージェワ選手は
「私は全く気にしてないの。この手紙に私は傷ついてはいないわ。このようなことは一度や、二度、三度ではないの。」(ハフポスト様より引用)と答えていた。
なんと強いのだろう。

ゆうこすさんの一件も

メドベージェワ選手への手紙も

単なる誹謗中傷であり悪口だ。

これらは、

名誉毀損、信用侮辱、信用毀損、業務妨害にあたる罪だ。犯罪だ。

知っているだろうか、自分が口にしていなくとも、この誹謗中傷に賛同したものも訴えられれば慰謝料を払う=すなわち罪を犯していることになる。法の規定にあるのだ。きちんと認識しているだろうか。

誹謗中傷を書いたあなたは、
誰かへの悪口を、
ちょっと鼻をへし折ってやろうとか、
羨望が過ぎてつい言ってしまったのかもしれないが、
これは、被害者が存在する立派な犯罪だと自覚した方がいい。

もっと悪質なのは悪口、誹謗中傷、

またはそのようなことを書いている

という認識がなく書いている、

言っている場合だ。そんなあなた達は、

批判にも達していない。ましてや批評

などとも到底言えない。

誹謗中傷、の誹謗とは対象(者または物)をそしりけなすこと、
中傷とは根拠もなく悪口をいうこと。
つまり誹謗中傷とは、
根拠もなく誰かに対しまた何かに対し
徹底的に悪口を言っていることであり、大変悪質である。

誹謗中傷したつもりではなく、批評したんだ!批判しただけだ!と言い出す人があるかもしれない。

Wikipediaでも辞書でもなんでもいい。
「批評」ということばを、「批判」ということばを、調べて欲しい。

批評・批判はどちらも、
ギリシャ語のkritiki
(何らかのモノの価値に対する
洞察のある判断)を意味する言葉から
きている。
現在のcritique(批評・批判)を意味する言葉は、概念(cocept)、理論(theory)、研究の原理(discipline)などを用いた分析手法(approach)などの因果関係に対し、体系的な問をたてること、
とされている。
つまり、理論や概念などのあるものに対し、システマティックな(きちんとととのえられた)問をたてるということを、批評や批判というのだ。
悪口はこうしたものではない。
ただ相手を傷つけるために
向けられた言葉だ。

だから、そもそも誹謗中傷と批評批判は異なる。さらに、もっといえば、

批評と批判も異なる。

批評とは、物事の善し悪しについてよく考え客観的に「評価」し、「論ずる」ことをいう。

いっぽう批判は、

批評から客観的「判定・判断」の意味をなくす、つまり、

批評した上で、「判定」を下す。

批評をする、ということは
誰かや何かに対し
判定をくだす、つまり、善悪を決める、という力を加えることになる。

先の、ゆうこすさんへの行き過ぎた書き込みは、決して批評ではない。批評どころか、批判するのはなおやめるべきだ。もっといえばただの悪口なのだから尚更やめるべきだ。

ちなみに
単なる感想を述べたに過ぎない
という人が出てくるかもしれないから
感想と批評の違いも述べておこう。

感想というのは、

一般的に、作品等を感じたことを表現することで、

批評は、

作品の善し悪しなどを評価することだ。

確かに感想であれば、主観的で評価しているとは言い難い。しかし、目的を意識し、場や状況に応じた適切な感想でない場合、それは感想とも言えない。


さて、毎日、新聞記事、ネットニュース、SNS、街中の会話を見聞きしていると、どうも最近は特に、
誰でもネットなどを通じて発言できる
ようになってきたからか、
以前に増して、有名人だけでなく
一般人があれこれ発言した力が
強さを増している気がする。
近年はSNSも多様化してきて、情報や言葉を発信するのは一部の有名人や芸能人のものではなくなった。
様々な形で様々なやり方で、誰でも発信ができる。

(画像引用元
https://images.app.goo.gl/88viZ1c38jaWDZjZ6)

誰でも、発信ができる、ということは、誰もが、即座に、世界中の人々に、
情報を渡すことが出来るということだ。
それが例え、友達の間での悪口のつもりだったとしても、自分のプライベートだったとしても。

鍵をつけていれば確かに
ある程度は閲覧範囲を制限できている
と思うかもしれない。しかし、
そのメディアを運営している側の
システムエラーが出ればすぐに広がる。
もっといえば、鍵をつける機能を作った側は監視ができる。それはこのnoteに書き込む私だって変わらない。
名前を出し顔を出し、そして
こうして文字として文章を書く今
それはもはや自分の部屋の中を
見せているようなものだ。
しかし、一方で自分の部屋は
自分の部屋であって、
許可なく他人を入れたいものでもない。

だからこそ、
無意識に何でもかんでも書いて、
誰でも文字を持ち言葉を持ち、
それを発信する手段をもついま、
もう少し、「言葉にする」とは
どういうことなのか、当然私も含め、
一人一人が、もっと考えた方が
良い気がする。自分がちょっと
と独り言のように、
または意地悪しよう程度の思いで
ふと出してしまった言葉が
他人の部屋を荒らし、
他人の生活を荒らす。
もっといえば、
ひとの大切な人生を壊すかもしれない

誰に勝手にそのようなことをできる
権限があるだろうか。

もう一度、先の私が
教授に言われた言葉を思い出してほしい。

「批評家にも評論家にもおなりなさんな」

批評家は先の説明でおおかた分かってくださったであろう。
評論家とは何か。
評論家、つまり評論をする人は、
(個人が)物事をどう捉えるか・把握するか・判定するかを表明する人らしい。

世間で評論家が、揶揄の意味で使われる場合には、
言うだけで実行しない人、
責任感のない人
傍観者でしかない人
という意味合いが強くなる。

どちらにせよ、
批評家も評論家も
他人の意見や論に対し、
または世の中に対して
それが客観的分析があるにせよ
ないにせよ、口出ししているだけで
あなたが批評または評論している相手のように自分の主張や創作を施してはいない。

世の中に○○評論家は多くいれど、
その人たちは社会に新しい何かを
創り出しているだろうか。
評論家が日夜、様々なことを指摘するが
果たしてそれらが指摘される度に
世界は変わっていっているのか。
良い方向へ向かっているのだろうか。

人に対して、なにか物申すのは
実に簡単である。
今こうしてこのnoteに
批評家や評論家
もしくはそれらにも当たらない
ただ悪口を書く人たちに対して
このようにただただ述べているだけの私では
何も変わらないのだ。
せいぜい、これを読んで
少し共感してくださった方が
なるほど確かに、とか
いやそれは違うなどと考えてくれる
かもしれない程度しかない。

だからもう一度言う。

評論家にはおなりなさんな。

評論家にもなれない

ただの他人への嫉妬や妬み嫉みの悪口は

なおさら。

自戒も込めて。

人に文句をつけるのは
人の意見を反対するのは
とても簡単だ。

新しい道を切り拓いていく、
我が道を必死に突き進んでいく、
想像し、創造していく、
その道の困難は
必死に、全力でやっている人にしか
きっと分からないのだろう。

創造できる人は
想像力を持っている。
想像力のある人は、
他人に想像力を働かせることができる。

他人に想像力を働かせるということは
他人へ、また自己以外のものを、
自己と異なる存在として認識し
その人や物に、
共感しようと努力することで
うまれる。

他人を批評している暇があったら
積極的に共感しようとし、
想像力と創造力を働かせたほうがいい。
それでも理解出来ない相手には
相手が他の誰かの名誉毀損をしていない限り
いちいち関わる必要はない。

批評するのではない。
他人の意見を、考えを精査し整序し、
自己の生き方や考えを創造する。
批評家である限りは、所詮、
自己は何もせず、
他者に文句をつけているだけになる
のではないか。

ましてや批評にも値しない
誹謗中傷など、あなたのためにも
相手の為にも
世の中の為にもならない。

もう少し
誹謗中傷と、批判と批評をきちんと考え
誰もが言葉を届けられる時代だからこそ、
必要な言葉を考えるべきなのだと思う。

昔誰かがこんなようなことを言っていた。

書くということは
目の前の存在を
なくてはならないものにする
ということだ、
と。

言葉は刃物、
使い方を間違えると厄介な凶器になる。

近年、教育界でも、
文科省が育てようとしている、
批判的思考(critical thinking)は、
他人の意見を単に批判しようとするものでは無い。
自身の論理構成や内容について内省することを意味している。criticalは、自身に向けられている内省的なものなのだ。

嫌なら観なければ良い。
他人に口出す必要はない。
たまたま見ていて、聞いていて
嫌だなと思ったのなら
自分を振り返る機会にすべきであって
いちいち他人に口出すものでは無い。
その相手が犯罪や名誉毀損をしていない限り。

もっといえば先のゆうこすさんの件は
愛犬もちちゃんの世話をしていないだろうとか、保健所にいた方がマシとか
そんな勝手な妄想から他者の名誉を
傷つけるべきではないし、
ゆうこすさん自身にも
何とかをしてくれないとか
こんなの期待していないとか
文句を垂れている方が見受けられたが
それなら彼女が言っている通り
期待していないものがあがったのなら
わざわざあなたの貴重な時間を割いて
見にきて悪口など言わなければいいのである。

(こんな偉そうなことを言っているわたし自身への自戒でもある。)

誰もが言葉を発信できる時代だからこそ、

何を言うかより

何を言わないか

が大切だと感じる。


参考文献
トップ画像
https://images.app.goo.gl/qYReyrrTr3ZEbkEe7(2019/6/9)

小笠原遥(ライター)
HUFFINGTON POST. NEWS
「「日本から出て行け!」フィギュア女子・メドベージェワ選手宛てとみられる中傷の手紙をジョニー・ウィアーさんが公表」. 2019年6月9日10時42分.
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cfc5573e4b04e90f1ca6e5c
(2019年6月9日閲覧).

ゆうこす
(菅元裕子さん)Instagram(@yukos0520)

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#思いつき以上思考未満

いつもスマホから書いているため
リンクをつくれなかったり
目次をつくれなかっりするのですが
これより前の投稿も含めて
パソコン等から編集できる余裕が
出たらリンクを飛びやすく修正していきます。

最後に、一応メッセージはお送りしましたが、ほぼ勝手にお名前を拝借したゆうこすさん、
そしてメドベージェワ選手
今後とも、ご活躍を楽しみにしております

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