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割に合わない努力をやめる

 何かに向かって努力をする。それ自体は、素晴らしいことです。一方で、「努力」という言葉の名の下、無駄に苦しんでしまう。無駄につらくなってしまう。そういう場合もあります。

 お金や地位、健康、容姿、その他能力。人は、色んなものを得たい、もしくは、維持したいと考えます。

 健康を維持するために、毎日何分運動をする。食べるものは、これにする。地位を維持するために、いついつまでにこれをする。次に、これをする。そういう風に、たくさん決まりごとを増やしていきます。

その決まりごとは、本当に必要なのかを見直す

 決まりごとを守るには、つらさ、苦しさが伴います。この時間にこれをする。そういう風な機械的な決まりごとに従うのは、そもそも苦痛を伴うからです。

 また、決まりごとを守ったからといって、得られるものが得られるわけではありません。日々、状況は変わっていきます。その中で、いつかの時点で決めた決まりごとが、目標の達成に貢献するわけでありません。

 そう考えてみると、割に合わないことが随分ある。そういう風に思えてくるといえます。そこまでして得る必要のあるものか、そこまでして守る必要のあるものか。それを見つめ直すことで、割に合わない努力を減らせるといえます。

無駄でもいいと思える努力をする

 割に合わない努力をやめる。それは、日々を楽しく過ごすことに繋がります。余計な決まりごとに縛られないからです。

 一方で、何かに向かって取り組み努力をしていく。それ自体も大事にしたい。そういう場合ももちろんあるといえます。

 その場合は、無駄でもいいと思える努力をすることが、日々を楽に過ごす上で大事といえます。

 何を残したかであるとか、結果という形は、一見、大事に思えます。ただ、形というのは、それを通じて、何かを伝えるために重要であるに過ぎません

 むしろ、一瞬、一瞬の過程を楽しむ。それが心を穏やかにして生きるための人生においては大切なポイントといえます。

 そうであれば、努力それ自体が、無駄だったとしても、一瞬一瞬の努力それ自体が楽しかった。それ自体に充実を感じた。そうであれば、それは、今にとって、良い努力であるといえるのではないでしょうか。

割に合わない努力をやめる

 認められたい。恥をかきたくない。得をしたい。そう思って、自分に我慢を強いるような努力をする。そして、今も楽しめず、たとえ結果が出ても、その喜びは一瞬であり、その後、虚しくなる。結果が出なかったら、絶望する。これだと、日常が苦しみで溢れてしまいます。つらさで溢れてしまいます。

 つまり、そうした努力は、割に合わない努力といえます。一見、「努力」と聞くと、それ自体で素晴らしくも思えます。ただ、自分の人生にとって、弊害となる場合もありうるといえます。その場合、そうした努力をやめることが、心を楽に生きる上で大事といえます。

 一方で、最終的に無駄になってもいい努力。そう思えるものは、今をも充実させるものといえます。そうした努力は、今を充実させている時点で、すでに、割に合っている努力といえます。

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