成熟した柔軟な信仰を生きるために

はじめに

 実はわたしのことをクリスチャンだと勘違いする人が多いが、わたしは信仰は持っているものの、クリスチャンではない。小学校はキリスト教(プロテスタント)の学校だったし、教会にも通ったことはあるのだけど、ついぞ洗礼を受けるには至らなかった。
 そうは言っても、ずっとキリスト教には興味と関心を持ち続けてきた。ただ、それでも自分にはキリスト教は合わないと思い、クリスチャンになることは大学卒業間際に諦めた。もっとも他の宗教を信仰してしまったのだから当然とは言え、その反面キリスト教にはずっと愛憎半ばする感情をいだいてきた。それがある時その違和感の正体はカルヴァン流のキリスト教にあったらしいことに気がついた。あの二重予定説というのがわたしにはどうも駄目だったようだ。

 詳しいことは書かないが、わたしにはカルヴァンの思想がどうにも肌に合わない。
 しかし、だからと言ってわたしは、必ずしもルターやカルヴァンといった宗教改革者がすべて間違っていると主張したいわけではない。評価できないと言いたいわけでもない。言うまでもなく彼らは自らの信仰に対して彼らなりにきわめて誠実に思索し実践したに違いない。伝記等を少しでも読めばわかるとおり、それは紛れもない事実である。しかしながら、宗教的に言えば肉体を持った人間のやることはすべて不完全であって、ルターやカルヴァンとてそれは例外ではない。そのため、彼らの熱情や誠実さがかえって裏目に出てしまったという側面があるのではないか。その逸脱と言うか、その思想がもたらした問題は非常に大きいようにわたしには思えてならない。
 このことに関してはいずれ詳しく書きたいと思っているが、ルターやカルヴァン(特に後者)は、結局のところ神に対する怖れをより強く強調することで信仰の成熟を実現したかったのではないかと思う。しかしながら、その結果は決して望ましいものではなかったようにわたしには思えてならない。わたしはその彼らの思想がもたらしたものに疑念をいだいているのだが、ここではその問題ではなく、まずは彼らも当然重視したであろう信仰の成熟の問題について考えてみたいと思う。

■1:成熟した信仰はこの世でどこまで可能か?

 信仰の成熟について考えるに当たって、本来ならば、その前提として、成熟とは何か、具体的にはどのような状態を指して成熟とするのか、といった事柄から論じなければならない。しかしここでは、単純に言って、人間の成熟とはさまざまな意味で「大人になること」だとしておこう。

 人間が大人になるには、(現代においては)少なくとも20年近い時間の経過が必要とされる。しかも人間が成熟した大人になるには、肉体面だけでなく、あるいは知識面だけでもなく、心理面や精神面といったさまざまな側面のバランスの取れた成長(発達)が必要となる。そのため、人間は生まれてから大人になるまでの間、家庭や学校、また地域社会によってさまざまな教育を受けることになる。それに加えて、最近は教育心理学でも、人間が健全な発達をとげるには、親にしっかりと甘える経験、そういった時期がとても大切だとされる(後述)。人間が成熟するには、その前の未成熟な段階も非常に大切な時期であって、この時期をないがしろにすることはできないのである。

 しかも、これは何も心身の成長に限らない。
 習い事でも何でも一朝一夕には成就できないことは多くの人がご存知だろう。何事もそうだが、基本を学ばず、基礎の段階を経ずして、一足飛びにプロの段階には誰も到達しえない。信仰とて同様で、基礎の段階、未熟な段階を無視して、いきなり成熟した信仰を求めても無理というものである。大体、人間が成熟するにも幼い段階があり、時間をかけて成長してきたのだから、信仰の成熟にもそれなりの時間をかける必要があるはずである(コリント人への第一の手紙 13:11-12参照)。それならば、信仰者に多少未熟なところが認められたとしても、特に初心者の場合ーーあるいはそれなりの経験を踏んだ一般信徒の場合でもーーある程度はこれを容認し、その信仰で安心してじゅうぶんに神を求めさせてあげる柔軟さが教会やその指導者たちに求められて然るべきであろう。
 もちろん成熟した信仰とはどのようなものか、(真に理解できているかどうかは別にして)初期の段階できちんと教えておく必要はあると思う。それは当然大事なことだが、しかし、生まれたばかりの赤児にいきなり牛肉のステーキを与える愚を冒す親がいないように、何事も焦りは禁物である。その意味で彼らを成熟した信仰者に育てるのは教導者や先輩たちの役割であり、腕の見せどころだと言ってよい。いくら成熟した信仰の状態を神学的に明確にしえたとしても、単なる教理問答書をまる覚えしたような理解でこれができると思ったら大間違いなのである。

 そのうえ教会の門戸は、新しい信仰者を迎えるべく世間に対していつも開かれていなければならない。教会はいつも初心者を抱えていなければならない宿命にある。これは何も教会だけのことではなく、この世のすべての組織が抱えている限界でもある〔注1-1〕。それだから、初めて教会の門を叩いた求道者(きゆうどうしや)にいきなり確立した成熟した信仰なるものを求めることはもともと不可能というものなのである。

注1-1:毒麦の譬え(マタイ福音書 13:24-30)にも見るように、成熟した人間と未成熟な人間はこの世において共に最後の時(キリスト教における終末、最後の審判)まで分け隔てなく付き合う必要がある。この譬えは宗教的寛容を説くものとして解釈されることが多いようだが、拙速のあまり、折角育ちつつある麦を毒麦といっしょに抜いてしまっては意味がないと聖書も教えているのだと理解してよいと思う。《未成熟な毒麦と未成熟な麦は同じように見えるので、生長し、収穫の準備ができるまで区別することができない。毒麦(不信者)と麦(信者)は、この世でいっしょに生きなければならない。》〔『BIBLE navi 聖書新改訳 解説・適用付』いのちのことば社出版部、2011年12月、p.1541〕

 たしかに信仰教育のためには、形をなした、しっかりした教理も必要だろうが、それだけで教会員の教導がすべて賄えるわけではない。このように教会は、この世においていつも不完全な状態におかれていることになるわけだが、逆に言えば、それだからこそ教会は生きた信仰共同体なのだとも言えるのである。
 そのため、人間の成長と同様、効率が悪いかもしれないが、さまざまなハプニングの中での生きた教育が教会内においても必要となる。単なる知育ならまだしも、霊的な事柄〔注1-2〕を効率的に教えることは基本的に不可能だ。多少の効率化は可能だろうし、必要かもしれないが、いたずらに効率を優先したら、信仰教育はおろか人間教育も無残な結果に終わる。この世においては、教会も信仰者も、不完全なまま、未成熟なままこれを容認することが求められているのである。しかも、人間そのもの、そして世界そのものがもともと不完全さを免れぬ存在なので、この世界においては完全無欠な教理や教会は誰にも実現できない。そのことをわたしたちは決して忘れてはならない。それはいわゆるユートピアの夢でしかないのであって、われわれは常にそのことを意識する必要があろう。

注1-2:これは人間的かつ人格的な事柄においても同様で、何も霊的な事柄にばかり限定されるわけではない。わたしは人間的=実存的な事柄はすべからく霊的=宗教的な事柄でもあると捉えているが、両者はやはり無理に区別すべき事柄ではないと思う。

■2:人間の基本的信頼感と宗教信仰

 ライフサイクル論やアイデンティティー(自己同一性)の用語で知られるエリク・エリクソンは、人間の成長にとって一番大事な発達課題を「基本的信頼」だとする〔注2-1〕。そのため、母親に心ゆくまで甘えること(授乳を含む)などから培われるこの基本的信頼感が弱いと、成長しても病的な依存など心理的な問題を当人が抱えることが多くなるだろうことは昨今よく指摘されるところである。
 そして、そのような基本的信頼感の弱い人がたとえ誰かを愛したとしても、それが一種の依存的なしがみつきにしかならない可能性は非常に高い。そのままの状態にとどまっているかぎり、彼が人生において成熟した愛を手に入れることは、不可能ではないにしてもきわめてむずかしい。さらにそんな人間が長じて、たとえ何らかの宗教を信じたとしても、そのような心理的状態でなされる信仰がそのままで成熟したものに育つ可能性はかなり低いと言わざるをえない。基本的な信頼感なしの信仰態度(それは必然的に基本的不信感に根ざした信仰態度となるに違いない)はかえって病的な「狂信」を生むだけなのである。したがって、もしも基本的不信感(怖れ)を育てがちな宗教信仰があるとしたら、それだけでその宗教は問題を抱えていると言ってよいのではないかとわたしは思うのだ。

注2-1:『幼児期と社会1』仁科弥生訳、みすず書房、1977年5月. この発達課題が相当する時期は0~1歳半の乳児期で、これはフロイトの言う口唇期に相当する。

 このように見てくると、個人的見解ながら、基本的信頼感を信仰者にどれだけ得させられるかでその宗教の真価が決まるので、その点を無視して、その宗教や信仰が正しいか否かを客観的に論じることはあまり意味がないとわたしには思える。それだから、宗教を信じるにしても――逆に思うかもしれないが――まずは自他に対する「基本的信頼感」を自分の中にしっかりと確立してからの方がよいということになる。ただし、基本的信頼感をじゅうぶんに確立できていない人間の方が現実としては多いことは想像に難くないので、そこで現実問題として、その入信者が基本的信頼感を得られるよう、その宗教の先達などがその人の信仰(≒信頼感)を時間をかけて育ててゆく必要があるという次第である。

■3:大人になるということ

 上でわたしは、簡単に言えば成熟するとは「大人になること」だとした。別の言い方をすれば、それは親その他の依存対象から独立して自分の足で立つことでもある。ただしわたしは、信仰を依存と同一視し、これと対立するものとして「自立」を捉える見解は取らない。私たちは神を離れては生きられない存在だし(マタイ福音書 4:4)、その意味で完全な自立ということはありえないからである。

 ちなみに、「自立」(independence、self-reliance)と「自律」(autonomy)とは厳密には違う。辞書を見ると、自律を意味するautonomyには「自治」の意味もあるように、どちらかと言うと自律には神にも依存しない完全な独立というニュアンスが強いと感じる。それに対して辞書では、自立にはindependence以外にself-relianceも挙げられている。後者は直訳すれば「自己信頼」を意味する言葉である。
 自立とは自分の足で大地に立つこと、すなわち世間の評価などに左右されない、ゆるがぬ自己を確立することだが、そのためにはまず自己に対する信頼が必要となる。しかもその信頼は、上で指摘した基本的信頼感とその体験から生まれる根源的な感情である。つまり、母子関係に代表される身近な信頼できる相手との間の愛し愛される体験があってこそ、人は人生において出会う誰かを信頼し、その相手に自己を委ねることができるようになるのだ。

 したがって神にその身を委ねると言った場合も、やはり自他に対する信頼に根ざしたさまざまな体験が最後はものを言うのではないか。それは旧約聖書において絶大なる神の愛が人間の父母の愛のメタファーで語られることが多いことがそれを証明していると言えよう。神と《顔と顔とを合わせて見る》(コリ人への第一の手紙 13:12)状態に至るまでの間は、わたしたちは《幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考え》(同 13:11)ることも許されているのではないだろうか。したがって、神に対して子どものように甘えることも当然許されていると考えて差し支えないのではないか。わたしはそのように思うのである。

■4:柔軟な信仰と健全な不信仰

 柔軟で成熟した信仰の問題に関して、上で展開したものとは多少違う観点からも論じておきたい。それは信仰の「先鋭化」の問題である。

(4-1)曖昧さに耐えつつ生きる信仰

 わたしは信仰に限らず、おのれが信じる価値観や教義・教条の先鋭化の危険性についていつも考えている。ただし、わたしはラディカル(先鋭的)であることがそのことだけで間違っていると言いたいわけではない。要は間違った先鋭化を問題にしているのだ。

 成熟した信仰の問題について上で論じたように、教会に限らず世の組織は、通常さまざまな人を常に受け入れ続けなければならない組織である。それは、この世の現実として、教会においても信仰上の完全な成熟は望めない、ということを意味している。

 もちろん教会員の中には、尊敬できる立派な信仰者もたくさんいるに違いない。しかしそれとは逆に、さまざまな問題を抱えた人もそれと同じくらい存在するだろうことは想像に難くない。
 上でも論じたように、信仰共同体は求める人にはいつも門戸を開いていなければならないし、そういった人たちをいつも快く、そして温かく受け入れなければならない。それがこの世にある教会の宿命なのだとすれば、それは、理論的に整理された完全な教理(それを理想ないし理念と言ってもよいかもしれない)をそのままの形で実践することがもともと許されない組織であるということになる。ところがいたずらな先鋭化は、そのような曖昧さ(現実の姿そのもの)をえてして断罪しがちである。それに対してわたしたちは、先鋭化・急進化の罠に捕われず、人間世界、ひいては教会における《曖昧さに耐える勇気》(マスロー)を持つ必要がある。それだから信仰者は、信仰上のラディカルさを保ちながらも、信仰の実践はあくまで柔軟に行なうよう心懸けるべきだと思うのである。

(4-2)柔軟な信仰と健全な不信仰

 それに関連して言えば、精神科医でクリスチャンでもある工藤信夫が『信仰における「人間疎外」』〔いのちのことば社、1989年9月〕という本の中で「健全な不信仰」の必要性を述べている。この表現には多少問題があるかもしれないが、言いたいことはよく伝わってくる。工藤が言いたいことは、要は柔軟な信仰態度が何よりも大切だということである。

 たとえそれがどれほど正しい信仰ないし教義解釈であったとしても、その運用(実践)においてそれが柔軟さを欠いた不自然なものであった場合、時にその信仰が人を疎外し殺すこともありうる。それに対して真に柔軟な信仰の持ち主の言動は、教条主義者から見れば時に不信仰のように見える場合もあるかもわからない。しかし、教条主義者からは一見不信仰に見えるその人の言動が実はキリストの精神を真に活かしたものである可能性も否定しきれないのだ。
 具体例を以下に挙げよう。

 ここで柔軟な信仰ということで思い描くのは、V・E・フランクルの講演集『それでも人生にイエスと言う』〔山田邦男、松田美佳訳、春秋社、1993.12月〕の訳者解説で紹介されたフランクルの文章である。
 そこでは、強制収容所に夫婦で収容された時に夫が妻に向かって、どんな犠牲を払ってでもよいから必ず生き残るように頼んだという話が紹介されている。そこには、彼女は美人だったので、「どんな犠牲を払っても」とは、「たとえゲシュタポに対して売春行為をした(強要された)としても」という含意があったという。フランクルによれば、このとき夫は妻に免罪符を与えたかったのであり、それは、たとえ《汝姦淫するなかれ》という十戒の掟に違背したとしても、それは《汝殺すなかれ》(フランクルはこれを「自殺禁止」の戒めとしても捉えている)という十戒を守るためのものであったと言うのである。
 孫引きながら、以下のその箇所のフランクルの言葉を引用しよう。フランクルは次のように言うのだ。《この最後の瞬間に良心が、十戒のうちの「汝は姦通すべからず」から妻を免ずることを、この夫に強い、命令したのである。この独自な状況、実際ある独自な状況では、夫婦の貞節という普遍的な価値をすてること、すなはち十戒の一つに反することが独自な意味なのである。たしかにこれが、十戒の中の別の一つ、「汝、殺すべからず」に従うただ一つの方法だったからである。》

 この例によく表われているように、フランクルは、ある戒めを守るために別の戒めを破ることを是としているわけだが、このような柔軟な態度こそがかえって律法の精神を活かすものなのだとわたしは捉えている。
 よく勘違いされがちだが、先日「教義・教条を超えて」でも書いたように、個々の律法の条項が大切なのではなく、その個々の条項に現われている律法の精神、(その律法に結実したかぎりでの)神の御心といったものこそが本来一番大切にされなければならないものなのである。その本末を転倒する時、そこに悪しき律法主義が生じる。それに対して、律法主義に陥らず、律法を真に活かす行為こそが柔軟な信仰態度と言えるのである。
 もっともそのような信仰態度・姿勢は、律法主義的な人からすれば当然律法違反でしかなく、神に対する不遜な態度だと見られるかもわからない。だから、工藤の言う「健全な不信仰」という表現もあながち間違いではないとわたしは思うわけである。したがって、律法否定にも見える福音書におけるイエスの言動(山上の垂訓、特にマタイ福音書 5:17-48 で展開されたイエスの宣教などはその最たるものだと言ってよいだろう)もまさに律法の精神を活かすためのものだったと言えるのである。

 パリサイ人に代表される教条主義者には、しかし、そのような柔軟な態度がどうしても許せない行為に映るに違いない。だからこそパリサイ人や律法学者から不信仰と見なされて、イエスおよび彼の弟子たちはさまざまに非難され攻撃されたのである。それはイエス在世当時も今も変わらない他者に対する断罪の態度であると言ってよい。

 毒麦の譬え(マタイ福音書 13:24-30)において、天の国とは麦と毒麦とが共存している状態であることが示されているとわたしは理解しているのだが、柔軟な信仰とは、このような曖昧な状況の中で拙速に人を裁かない態度を意味している。それは、《人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。》(マタイ福音書 7:1-2)と聖書にあるとおりである。
 あくまで信仰はラディカルさ(根本的、根を持つこと、必ずしも急進的の意味ではない)を保ちながらも、しかし、矛盾が常態と言える現実世界の中で、その曖昧さに耐えつつ、柔軟にその信仰を生きる。そのような信仰態度こそが、神に諒(りよう)とされる真に生産的で健全な信仰態度だと言ってよいのではないだろうか。それこそがイエスが生きて見せた信仰態度・姿勢と相通じる生き方であるとわたしは見ているのである。(なお、このようなラディカルながら柔軟な態度というものは、何もキリスト教だけに限らないし、あるいは宗教だけに限定されるものでもないことをここで付言しておきたい。)


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