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「つくね小隊、応答せよ、」(六)


光前寺は、信州駒ヶ根の山の麓の寺です。苔むす石垣と林の中の石畳。その長い道の先に、本堂があります。

石畳の上をゆっくり歩いていると、あたりがだんだん静まりかえってきます。風の音、木々が揺れる音、鳥の声。弁存は、久しぶりにゆっくり呼吸が出来たように感じました。

本堂の前、老僧がひとり、竹箒で、掃除をしています。



「こちらのお寺の方とお見受けいたします。拙僧は、旅をしております、弁存と申します」

髭を生やした小さな老僧は、眩しそうに弁存を見てお辞儀をして、笑顔で挨拶をしました。

「おう、うん、これはこれは、旅のお方ですなぁ、うん。今日はね、とっても暖かいねえ。鳥も、ふかふかと気持ちよさそうだね。ねえ?そう思わない?旅のお方」

黄色い小さな花のような顔で老僧は笑いかけます。弁存は彼の言葉に頷き、木々の鳥たちを見上げました。確かに、日を浴び、ぬくもって気持ちよさそうです。思わず弁存も、にんまりと幸せな気持ちになりました。

けれども、用があってここを訪れたことをすぐに思い出します。

「じ、実は、わたしは、かれこれ一年ほど、早太郎という人を探し旅をしておりました。しかし先程、ここに早太郎という犬がいる、という話を聴いて、それで参った次第でして」

「あ、うん、おるよ、早太郎ね、うん、おる」

「その、会わせては、もらえぬでしょうか?」

「あ?早太郎に?うん、いいよ。ちょっとまっててね」


老僧は、弁存にくるりと背中を向け、山の方へ向けて大声を出しました。

「これ、早太郎、こっちへ来なさい、どこじゃ?早太郎、ほれほれ、あれ、おかしいね、早太郎?早太郎ぅうう!」

老僧が早太郎を呼んでも、なかなか早太郎は出てきません。老僧は、やれやれという顔をしながら、指笛を吹きました。

ぴゅううううういいいいいいいいいいいいいいいいいいいい

境内や裏山に、老僧の指笛が響き渡ります。


すると、山の頂上付近から、遠吠えが響いてきました。かなり遠くの場所です。

「あ、おったよ、いまのが早太郎だよ、ね、遠くにおるみたいだね、山犬だったからね、早太郎は。だからね、山が好きみたいね、あの子は」



ずざざざざあざっ



そんな話をしているうちに、土を蹴る足音が近づいてきて、いつの間にか老僧のそばに、灰色の大きな大きな犬が座っていました。ほとんど老僧と同じくらいの大きさの犬です。

老僧のことを慕っているのか、ぴたりと姿勢よく彼に寄り添い、彼の顔を見上げています。

先程の遠吠えが聞こえた場所は山の頂上のようでした。そして早太郎は、そこから一瞬で駆け下りてきたはずなのに息がまったく乱れていません。


しんしゅう

しなのの

はやたろう

はやたろうには

しられるな


弁存の耳の奥に、狒狒たちのあの唄がよみがえってきました。

あの神社の境内の真ん中から、一瞬で移動して弁存のそばまでやってきた狒狒たち。彼らは自分達の早さに自信があるのでしょう。けれども、山の頂上から麓のこの寺まで、一瞬で駆け降りてくる早太郎は、狒狒たちよりも、さらに早いのかもしれません。


狒狒たちは、この、犬の早太郎を恐れているのだ。

と、弁存は確信しました。


老僧は、早太郎の頭をにこやかに撫でてから言いました。

「早太郎はね、山犬、狼の子なんだよね。数年前、この子の母親がね、本堂の下で子を生み、育てたのね。わしも寺の者らもね、仔たちを可愛がって餌をやるうち、この子だけは人間によく懐いたのね。

だからさ、母親が山に帰るとき、“この子を置いていってはくれんか”とわしが頼んだの。そしたら、翌日、この早太郎だけがこの寺に残ったんだよね。風のように走る、疾風のような山犬でね、わしが、早太郎と名付けたんだ。賢い子だよ、人の言葉も、わかるみたいだね」

老僧は、一息にそう話すと、弁存の目をしっかりと見据え、続けて言いました。

「旅のお方。お主は、辛い目に遭われたようだね。目を見たらね、お主が人にはいえぬような辛いことを経験したということがわかるよ、うん、わかるって言われても、なにがわかるってんだっていうのも、わかるよ、うん、怖い経験をしたんだね、辛かったね、うん、それで、どうやら、早太郎が、必要なんだね、多分、そうだよね」

「…はい。昨年の秋のことです。旅の途中で立ち寄った村で、」


弁存は、静岡の見付天神で起こったことをすべて話しました。娘のことを話すとき、悔しさと恐怖で、涙があふれて仕方ありませんでした。

老僧も早太郎も、黙って弁存を見つめ、話を聴いています。

しんしゅうしなのの

はやたろう

はやたろうに

しられるな

狒狒たちが唄った唄のことも話しました。
話し終わると、弁存は、ひざまずき、額を地面につけて言いました。

「あの朝、神社へ片付けにやってきた村の者たちに助けてもらい、起こったこと、わたしが見たこと、いや、み、みみ見せられたことを、真実を、みなに、話しました。

けけけれども、誰も狒狒がいるなどと、信じようとはしませんでした…。いや、彼らは気づいているのです。村の娘たちを、自分の娘たちを捧げている相手が神などではないことぐらい、ほんとうは気づいているのです。けれども、娘を捧げる以外に、彼らには生きてゆく方法が、ありません。だから、私の話など、聞きたくなど、なかったのでしょう…。

しかし…わたくしは、あの娘が、罪もない娘が、弄ばれ、苦しめられながら死にゆくその顔を、あの顔を、あの目を、見て、しまいました。人が苦しみと悲しみの最中、命を奪われてゆくその瞬間を、見てしまいました。ど、どうしてあの顔を忘れることができましょうか…。一時も、あの娘の顔を忘れることができませぬ。飯を食うておるときも、糞をしているときも、夜目をつむるときも、そして夢のなかでも。

わたしは、怖い。
あの狒狒が怖い。そして、なにより、あの娘のあの目が、怖いのです…。そして、なにもできずに叫んでいた自分が、一番恐ろしい…。わたしは、自分を、信ずることが…できま…せぬ…。

しかし、誰かがなにか手を打たなければ、毎年あの娘と同じ様に、罪もない若い娘が、辱しめられ、おもちゃにされ、殺されてゆくのです。
どうか、早太郎を、どうか早太郎とともに、見付天神へ行かせてはもらえぬでしょうか、どうかっ、このとおりでっございますっ」

老僧は、悲しそうな顔で何度も頷きました。弁存は、石畳の上で嗚咽を漏らし震えています。

早太郎が、ゆっくりと弁存のそばにやってきて、弁存の体の匂いを嗅いでゆます。
頭、肩、背中、脇腹、膝。

そして、足首の匂いを嗅いだとき、早太郎の顔つきが変わりました。額に深い皺が寄り、牙を剥き、怒りに震えるような顔つきになりました。

狒狒が弁存の足首を払った時の狒狒の臭いを、その手に染み付いた何人もの人間の血の匂いを、早太郎は嗅ぎとったのです。

早太郎は、低く唸り声をあげながら、老僧の顔を見上げました。

「うん。そうだね、早太郎。そうだよ、お前が決めることだ。弁存殿の話では、並大抵の、もののけではないようだよ。知恵も力もある、俊敏で狡猾で、生き物を殺すことを楽しむ、もののけのようだね。早太郎、おまえは強いよ。強いけどね、大狒狒三匹相手となればさ、無傷では済まないよ。うん、そうだよ、早太郎、わしじゃなく、お前がね、決めることなんだよ」

早太郎は、じっと老僧を見上げてしばらく黙りましたが、やがてひとつ、大きく、吠えました。

「そうか、そうだろうね。そうだね、お前はそうだな。うん、早太郎。うん、わかったよ」

老僧が、てくてくと寺の中へ歩いて行きます。弁存が慌てて顔をあげ、老僧に尋ねました。

「は、早太郎は、…なんと?」

「わしは今から、本堂で御不動さまに祈念して、支度を整えるね」

「…し、支度?と、申しま
「声がするっ」
渡邉が小声で、清水の話を遮った。


夏の夜の密林。

渡邉は、左手の人差し指を唇の前に当て、右手で二人のほうへ手のひらをつきだした。声を出すなという合図だ。

そして渡邉は、三八式歩兵銃の銃剣、ナイフををゆっくりと取り外し、ふたりを指差し、手のひらを地面にゆっくり何度も下ろす。ここにいろ、という意味らしい。

渡邉は、仲村や清水よりも長く戦場にいる。そしてこの3人のなかでは一番年上の27歳だ。

日々、5分後には生きていないかもしれないという生活を続けていると、五感は鋭くなり、判断力は、ほとんど直感のように働く。
暗闇の密林のなかでの偵察となれば、全長120センチの三八式歩兵銃を抱えたままでは、動きが緩慢になり、銃が枝葉に触れて音がするなど、難がある。そしてもし接近戦となれば、大きな三八式よりも、ナイフで戦う方が、機動力も隠密性も高く戦える。渡邉は、一瞬でそう判断して、銃剣を握った。

渡邉は右手に銃剣を握り、ゆっくりと声のする方へ這って行く。

仲村と清水は、固まったまま、三八式歩兵銃を構え、這って進む渡邉の背中を、神妙な顔をして見送る。

南国の、見知らぬ声の虫が鳴いている。





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