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2023年初美術館〜ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ「柔らかな舞台」展へ〜

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

不定期更新にはなりますが、今年も実践や研究、美術館や読書のレポート等をまとめていきたいと思います。

さて、2023年初美術館は、東京都現代美術館。新年は本日1月2日より開館しており、現在開催されているウェンデリン・ファン・オルデンボルフの「柔らかな舞台」に興味を抱いたため訪れました。

本展示のポスター。ある映像作品のワンシーンが採用されています。

展示は映像作品が中心ですが、役者が予め決められた演技やセリフを行うようなものではなく、様々なバックグラウンドを持つ人々が、権力による統治や支配、人種やセクシュアリティなどを理由とした差別などといった「社会が抱えるジレンマ」を真ん中に対話を重ね、その軌跡を捉えたものとなっています。会場には6点の作品が展示されているのですが、一つひとつの内容がとても奥深く、また多声的(1人ひとりが個々のバックグラウンドに基づいて発言していることに加え、それを表すべく上下の差し込み口どちらにヘッドフォンを挿し込むかで聴こえてくるような作品もあった)であるため、1つひとつ味わいながらじっくりと時間をかけて巡回。閉館時間も迫っていたため後半は早足になってしまいましたが、このような展示の性質から、一回限り再入場できるシステムが採用されているとのこと。

ジェンダーの不平等性などをテーマにポーランドの映画産業に携わる女性たちが対話する作品のワンシーンがパネルとして展示されていました。他にも角度によって見え方が変わる工夫がなされたパネルも展示されており、空間全体が多声性を尊重したつくりになっていました。

今回の展示を通して感じ考えたことは、大きく3点。

○「生・性・アイデンティティ」などは固定化されたものではなく、文脈や状況、他の要素との混ざり合いの中で常に変化していく動的なものである
…オランダに住む様々なルーツを持つ人々が対話をしている映像作品の中で、両親や祖父母などの親族が異なる国や地域の出身であるにも関わらず自分自身が旅券の上では「オランダ人」と括られることに対する違和感について参加者たちから語られていた。人種や肌の色などによる暗黙の、あるいは判然とした差別を受けてきた経験に関する語りもある中、様々なルーツやバックグラウンドを持ちながらも「ここにいる」という紛れもない事実は変わらず、そのような異質性を認め合った上で対話が生まれる重要性が伝わってきた。参加者から語られていた「その時代に応じた言葉や概念を創り続けることで統治・権力構造を越えていく」という旨の発言からは、レッジョ・エミリア市の幼児教育の〝動き〟(概念を固定化されたものとして捉えるのではなく、組み合わせたり再解釈したりしながら特異的な「いま、ここ」の実践にマッチする言葉を紡ぎ出している)が連想された。

○「作品」や「史実」なども同様に固定化されたものではなく、アクターたり得る
…今回の展示では文学作品や語りの記録、史実などが対話内におけるアクタンとして活躍していた。すなわち、固定化された「真実」としてではなく、様々な人によって語られ、そこから新たな解釈や対話に開かれていたのである。教育や保育の文脈で「子どもたちの想像・創造」と「事実」が二項対立的に捉えられることがあるが、そもそも「事実」とされているものに対する視点を変えて静的なものから動的なものとして捉え直すことによって、両者が混ざり合いながら新たな〝動き〟が生まれ続ける可能性が示唆されているように感じた。暗黙の統治体制について知った人々はそれをきっかけに対話を続けた。筆者の経験を例に挙げると、陽が昇り、そして沈むという「事実」を理解している幼児は、それを受け止めた上で「空全体が明るいから、もう一つ太陽があるのではないか」という想像を膨らませ、太陽を探し始めた。

○ 「理論」や「哲学」と「実践」とは結びつく
…今回の作品展にあたってのインタビュー動画の中で、ウェンデリン・ファン・オルデンボルフは「映画」というメディアにある「いくつもの層と多くの道筋」に着目しており、「イメージ 音 テキストを使って 情緒や情報 考察を招く可能性」がある点に興味を抱いている。すなわち、様々なアクタンが混ざり合い〝動き〟を生み出す〝場〟としての「映画」像自体も動的なものであり、混ざり合いとともに「映画」それ自体も変容していくというダイナミズムが生まれているように感じた。もしこれが「決められたセリフや演技をし、監督が望む100%を演者が表現することこそが映画である」という考えを持つ監督だったらどうだろうか。少なくとも、音声スタッフの語りや美術館に偶然流れた館内ツアーのアナウンス、直接は対話に参加していない人々の姿などの要素は全て排除することだろう。また、演者はあくまで作品に登場する架空の人物であり、生身の〝その人〟としての役割は期待されないだろう。そうではない「映画」となったのは、ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ自身の、統治や権利構造に対するアンチテーゼでもあり、またいかにして人々やアクタン間の対話や共創造がこれらの堅固な社会システムを越えていくかということへの飽くなき探求心があったからだろう。

「映画」の中で参与者たちが読み、対話をするきっかけになった文献やスクリプトも展示されていました。これらが固定化されたものではなく動的なものとなっている様子は、ぜひ展示をご覧ください。


今回の展示から、いち教育・保育実践者として自分自身が持つ理論や哲学にとって自覚的になる必要性や、子どもたち1人ひとりを多声的な存在として、動的なものとしての「生」を保障することの大切さを感じました。

また、いち教育・保育研究者を目指す者として、様々なアクタンによる異種混淆的な場としての「いま、ここ」を捉えるための方法論のヒントをもらうことができました。


今回の展示は「完成されたもの」ではなく、鑑賞者に対するウェンデリン・ファン・オルデンボルフからの投げかけであり、〝動き〟を続けて欲しいという願いが込められているように思います。「映画」から受け取ったメッセージを私自身が置かれている場の中で発揮できるよう、今年も努めていきたいです。

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