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誰一人、何者でもない

自分がちっぽけな存在であることに、安心することがある。


10年くらい前、サハラ砂漠でキャンプをした。

「砂漠のオアシス」とうたわれる町にバスで到着すると、体温を優に超える熱気がまあるく身体を包み込んだ。


ベドウィン族という砂漠の遊牧民が引くラクダに乗せてもらい、景色が歪みそうなほどの熱気の中、砂漠を2時間ほど進むと、柵で囲われただけの小さな居住空間があった。

質素な小屋に入って、太陽の猛攻から逃れつつ、陽が落ちるのを待った。



昼間の灼熱の余韻のような、暖かい夜だった。

クスクスを食べ、少しお酒を飲み、ベドウィンのおじさんたちとデタラメに歌い踊った。


歌うのをやめると、砂漠は少し緊張するくらいの静寂で、月のない黒い夜空は無数の星の小さな光で埋め尽くされていた。

いや、空ではなかったかもしれない。

なぜなら目線の高さより下にも、星の光が見えていたからだ。(空はいつだって見上げるものだ)


「遠い国はおぼろだが 宇宙は鼻の先」という、谷川俊太郎の詩が浮かんだ。


温かい砂の上に寝袋を引っ張り出し、寝転がる。

視野の範囲すべてが、星になって

私は、星を見ているだけの何かになった。


そして、なぜかわからないけれど、そのとき突然思ったのだ。

地球を外から眺めて、すべての生命がこんな風に無数の光に見えたとしたら。


きっと、ここにいる私という光とベドウィンのおじさんの光は、見分けがつかないだろう。

人間だけじゃない。

柵に繋がれているラクダとも、寝袋の横を歩いている小さな虫とも、すぐそこに生えている草とも、区別がつかないだろう。


無数に散った光の粒の中の、たったひと粒の私。

ほかの光に紛れてもはやどれだかわからない、ちっぽけで無名な、ただの生命現象。


それは、ものすごく真実のような気がした。

そして私はそのことにとても安心して、砂の上で眠った。



自分が、虫や草と同じような小さな生命現象だ、ということに、なぜ自分が安心するのか、本当のところはよくわからない。


強いて言葉にすれば、人の力ごときではビクともしない絶対的なものへの畏敬と

そもそも自分は何者でもないし、何者にもならなくていい、ということへの安心感ではないかと思う。


「みんな違ってみんないい」とか「人ひとりの命より大切なものはない」とか、そういう考え方を否定するわけじゃない。

ひとつひとつの光をズームアップしていけば、そこには確かに個性があるだろうし、どれも唯一無二の存在だろう。


でも物をみるときの基軸がそれだけになると、本当は存在しない(かもしれない)自分らしさを探して彷徨うことになりかねない。


だから、たとえば「人類が絶滅しても地球は回る」とか「地球の年齢は46億年」とかいうくらいのスケールで、自分という存在を捉え直してみる。

すると、自分の圧倒的な「何者でもなさ」がわかるだろう。

それは全然、悪い感覚ではない。


唯一無二の個人でありながら、生命現象の集合体の一構成要素でしかない自分。

この二つの軸を行き来しながら、肩の力を抜いて生きていけたらいいなぁと思う。

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