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【紫陽花と太陽・中】第一話 死に際

こちらはオリジナル長編小説の続きとなります。
登場人物などの簡単な内容は下のプロローグでも触れております。

小説は既に完結しておりまして、noteで一話ずつ公開していく予定です。
中巻の冒頭はやや暗いスタートとなりますが、よろしければお読みいただけると嬉しいです。



 もう、この目は光を宿すことはないようだ。
 皆、どれくらい大きくなったのだろうか。元気……では、きっとないと思う。
 心配かけてばかりだな。
 真っ暗な闇の中で俺は小さく呟く。
 ……いや、呟くことすら叶わない。俺の喉はもう使えないのだから。
 いっそのこと、聴覚だって使い物にならなければいいのにと、何度思ったことか。
 聞こえてくるのは、感謝、激励、明るい未来への淡い期待。
 それは、本当に? 俺に話してくれる彼らは、俺が本当に回復するとでも思っているのだろうか。

 死が近づいてくる。
 自分でさえ分かる。この身体とも長い付き合いだ。力がどんどん失われていく。
 愛する妻に会えるのも、きっともうすぐ。
 大切な家族に出会えたことも、凡庸な人間なりにたくさんの体験ができたことも、どれも懐かしい記憶。

 ただひとつ、後悔するとしたら。

 おまえと最後に言葉を交わしたのは、いつだったか。
 ものすごく寒い年の暮れ、食べたことのないくらい美味しい年越し蕎麦をと、おまえは頑張って腕を振るってくれた。
 丁寧にとった出汁に、家庭では調理に手間暇かかるであろう海老の天麩羅。鮮やかな三つ葉も忘れずに添えて。三つ葉は茎がゆるく結ばれていた。
 齢十五の子らが作ったものとは思えないほど、それはそれは優しい蕎麦だった。
 ついおかわりを希望してしまったが、麺も海老も人数分しか買っていないのだと、おまえは悲しそうに言った。
 こたつに入り、穏やかに談笑する、なんてことのない師走の夜。

 そうだった。おまえとしっかり会話をしたのは、それが最後だったな。
 最後だと分かっていたなら、違う話もできたのに。
 おまえはいつも自分と身の回りの出来事を楽しそうに話してくれたな。
 悩みや、つらかったこと、年相応に男同士として聞きたかったこともあっただろう。
 おまえは、それをしなかった。
 俺と会える希少な短い時間だ。あえて楽しい話題を選んでいたのだと思う。

 俺は、父親として、おまえにもっとしてやりたかったことが山程ある。
 でも、もう、どうしようもなく、遅すぎた。

 ……。

 最後だとは微塵も思わなかった、当時の俺は、たぶんおまえに。
 きっと「あの」言葉を残してしまったと思う……。
 くそっ、訂正できるのなら、戻れるのなら、
 今はちがう、こと、ば、 を、   お  ま え    に…

 ◇

 授業中にもかかわらず、教室の扉をノックする音がした。
 昔のように眠いわけでもなく、でもずっとぼうっとしていた僕は、ふっと意識を浮上させた。
 僕はいつも、自分への用事だったらいいのにと思ってしまう。
 父の、臨終の知らせ。訃報。何かしらの緊急事態。
 もう辛かった。早く終わってしまえと思ったこともあった。
 奇跡なんてとっくに信じていない。
 学力ギリギリでなんとか合格した高校生活。だけど、入学当初から頭の中には授業なんてものはさっぱりと入ってくる気配がない。この無為な時間を、読書に当てられたらどんなにいいか。

翠我すいが、こっちに」
 授業担任の先生が僕を呼んだ。
 しんと教室は静まり返っている。僕がガタッと椅子をずらす音がやけに大きく感じた。皆の視線が痛い。自意識過剰だろうか。最後部の僕の机から教室の前まで、顔を伏せて歩いている間、好奇の目がいろんなところから飛んできているように感じた。
 期待した、といえば息子として失礼なことだろうか。伝えに来てくれた先生によると、父の入院先の病院へ行くためにすぐに帰宅せよ、という内容だった。
 ついにきた。
 廊下にいる伝言の先生の後ろにあずささんが立っていたので、思わず目を瞠った。
 自分の高校ではない学校に入るのは勇気がいることだと思うのに、あずささんはぴんと背筋を伸ばして堂々と立っていた。硬い表情で、心配そうに僕を見ていた。
「職員室で待ってて良かったのに」
 そういうと、あずささんは一瞬何かを言いかけたがすぐに口をつぐんだ。
「荷物、取ってくるね」
 来た道をまた戻る。あずささんが廊下にいるのを見つけた生徒が、遠慮なく「あの子、誰?」と問いかけた。
「……妹」
 違うけど、説明するのもめんどくさい。元クラスメイトで諸事情で同居することになった同い年の女の子、などと言えば何を想像されるのかたまったものじゃない。
 そもそも、妹なら。ここ市内でも超難関進学校の制服を着ているのだ、高校一年生の僕より年が下のはずがない。双子の、とでも付けておけばよかった。

 先生からいくつか今日中に折り返し連絡してほしい事柄などを伝えられたが、頭がうまくまわらなかった。内容だけでなく連絡することさえ忘れそうだと思ったが、隣のあずささんを見た時に小さく頷いてくれたので、彼女が要連絡事項をしっかり覚えていてくれたのが分かった。そのためにわざわざ校内まで迎えに来てくれたのかもしれない。

 外に出ると、風が強かった。
 風であずささんのつやつやした黒髪がなびく。耳にかけるしぐさにどきりとして、こんな非常時にすら変な音を立てる自分の心臓を呪った。もうずっとこんな調子だ。前までは、普通だったのに。
「来てくれて、ありがとう」
「ああ」
「これから……一旦着替えたほうがいいのかな」
「いや、私は桐華とうかさんから連絡があって、遼介りょうすけと一緒に直接病院へ来てもらうよう頼まれた」
 そういって病院の住所と連絡先のメモを見せた。
「分かった」
 僕はリュックを背負い直し、まだ着慣れない学ランの首元に手をやった。入学直前に新しく買ったシャツがパリッとしていて硬く、首に当たった時に痛いのだ。

 タクシーを呼び、行き先を伝えた。
 車内でも無言だった。
 父のこと、これからのこと、椿のこと、葬儀とかお棺とか晩ごはんのこととか。考えてもきりがないことをぐるぐると考えてしまう。
「……大丈夫か?」
 何か言えたらあずささんを安心させてあげられるのに。手先が冷たくて、頭の中もぐちゃぐちゃでよくまとまらず、頷くだけで精一杯だった。

 ◇

 お義父さんの入院している部屋に二人が来た時には、すでに遅かったのだと思う。
 生前に伺った御本人の希望もあって、よほどのことがない限り心電図モニターを装着することは控えていたので、俺と桐華、梨枝りえさん、椿つばきちゃんは、ベッドの周りでお義父さんの様子を見ながら、これからのことを少しずつ話していた。点滴の管が繋がっている以外はいつもと変わらなかった。
 今朝方から少し呼吸の様子が変わったとの知らせを受け、念のためと家族を呼んだ。会話はかなり前から難しい状態にあったので、最期に想いを伝え合うということはできないと皆は既に知っていた。
 二人が来た時は、息はもう止まっていたように感じた。
 遼介くんの顔は誰が見ても蒼白で、いつ倒れるのか心配になるほどだった。
 看護婦さんが診断し、死亡を告げ、少しのお別れの時間をもらった。
 桐華と梨枝さんが葬儀の対応をするため、あちらこちらに電話をしているのを俺は離れたところで眺めていた。椿ちゃんは、遼介くんとあずさちゃんにぴったりとくっついて、でも号泣することなく意外と落ち着いた様子で俺は驚いた。一度、あずさちゃんが飲み物を買いに部屋を出ていった時、椿ちゃんは遼介くんの腰に抱きつき、抱っこしてもらっていた。遼介くんは無言で妹を抱き上げ、父親の顔が見える位置に移動した。何も言わなくても分かり合っている、俺はこの兄妹の絆がすごいことにいつも感嘆する。

 親戚と俺たち家族と少しの知人と。小さな葬儀が希望だったので、すぐに準備にとりかかることになった。

 葬儀場はこじんまりとした部屋だった。
 遺影写真のお義父さんが極上の笑顔でこちらを見ていた。
 眼鏡を外せばものすごく遼介くんにそっくりだと思った。
 というか、椿ちゃんは「お兄ちゃんじゃん!」と断言した。それくらい、似ていた。

 桐華たちが慌ただしく準備をし、手の足りないところを俺がフォローしている間、ふと遼介くんを見ると、彼は遺影写真を睨みつけていた。立ち尽くして、眉間に深くシワを寄せて。
「ちょっと、遼介! 少しは手伝ってよ!」
 初めての喪主——たいていは喪主は初めてだと思うので、不慣れなのは仕方のないことなのだが——にキャパオーバーになりつつある桐華が怒鳴った。
「あんった、さっきからぼーっと突っ立って! やること山積みなんだから!」
「……」
 遼介くんが振り向く。
「打ち合わせ、これからなんだけど、いつ終わるか分かんないし、ご飯とかどうするの?」
「……ええと、どうするの?」
「それを聞いてんの! つか買ってきてよ!」
「……僕は、打ち合わせにはいなくていいの?」
「えっ? あー、うーん。そうねぇ、どうしたらいいかしら……」
「してほしいことを教えてよ。流れとか分からないしさ……」
「いちいち言わないといけないの? 打ち合わせには参加してよ! 長男なんだから!」
「……」
 あずさちゃんがオロオロと様子を伺っている。
 俺は苦笑いする。桐華の遼介くんに対する態度はわりと手厳しい。期待が大きすぎるせいもあるのだと思う。言わないけど。

 結局、打ち合わせのスタートと終わる目安の時間を聞き、軽く役割分担をして一日目を終えた。明日からが本番だ。

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