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猥褻とは

「現代語 古事記」の著者である、明治天皇の玄孫が自慢の竹田恒泰によると、冒頭で、「古事記を読むことは、天皇の由来を知ることであり、それはすなわち、日本とは何か、そして日本人とは何かを知ることである。」と述べているが、では、その天皇や日本が何なのか、「ある視点」を中心に古事記を読んでいきたい。「ある視点」とは、すなわち「エロ」である。
まず第1に、日本神話はセックスから始まる。しかも、かなり露骨な表現で、古事記が「現存する世界最古のエロ本」と言われる所以である。そんな古事記のエロ表現をすべて紹介するとめちゃくちゃ長くなるので、いくつか代表的なものを紹介しよう。
まずは、国生みの神話から。原文は以下のとおりである。
(原文)
問其妹伊邪那美命曰「汝身者、如何成」答曰「吾身者、成成不成合處一處在」爾伊邪那岐命詔「我身者、成成而成餘處一處在 故以此吾身成餘處 刺塞汝身不成合處而 以爲生成國土 生奈何」訓生云宇牟 下效此 伊邪那美命答曰「然善」
ここで、「成り成りて、成り合はぬところ一處あり」とは女性器、「成り成りて、成り餘れるところ」は男性器である。この二つを「故(かれ)この吾が身の成り餘れる處を、汝が身の成り合はぬ處に刺し塞(ふた)ぎて」というのだから、これはセックスの本番をしようというのである。こうして、セックスして最初にできたのがオノコロ島(淡路島)であるが、最初、伊邪那美と伊邪那岐の2人は、どうやって関係したらいいのか分からずに困っている時、セキレイがつがいで飛んできて、頭や尻尾を震わせながら交尾した。それを見た2人はセックスの仕方を学んだというわけである。小鳥の交尾は後背位(バック)であるから、それに学んだ伊邪那美、伊邪那岐も当然ながら後背位(バック)で結ばれた。確かに、鳥が正常位で交尾するわけがない。静岡県三島地方や広島県などではセキレイを神の鳥と称し、みだりに捕まえてはならないものとされている。その理由は神にセックスの道を教えた万物の師であり、神の使い以上の存在とされているからという。これに類する風習は熊本県南関地方や岐阜県高山地方でも報告されている。ちなみに、伊邪那美・伊邪那岐は、よく夫婦神と言われているが、実を言えば二人は兄と妹である。だから、日本最初のセックスは近親相姦だった。
江戸時代中期の国学者谷川士清が著わした「倭訓栞」の中で谷川士清は伊勢神宮の神衣である「大和錦」にはセキレイの模様があると指摘している。神衣とは伊勢神宮がこの地に創建された時に、同時に納められた衣類を指し、「大和錦」という言葉には「日本で初めて織られた錦」という意味合いも含まれている。そこにセキレイの模様が織り込まれているとすれば、お伊勢さんでも日本人に初めて後背位を教えてくれたセキレイを特別なものと見なしていたのだろう。
小笠原流といえば室町時代から礼儀作法の流派として知られているが、故実にもとづく冠婚葬祭の作法を武家などに教示するようになったのは江戸時代初期である。新婚初夜の決まりごともその一つで、寝所に比翼枕、犬張子、乱箱、守刀、セキレイ台などを置き、床盃が行われることになっている。それが終わると新婦が先に、新郎が続いて床に入るという。セキレイ台というのは床飾りの一つで、全体は島の形をしている。台上にはセキレイの一つがいが飾られ、根固めとして岩が置かれているというものである。これも伊邪那美・伊邪那岐の故事に習ったもので、新婚夫婦が上気してうまくいかない時、これを見て落ち着くようにという配慮から置かれたものといわれている。江戸の町民も小笠原流にならったか、セキレイ台が結婚式の調度品として欠かせないものになった。
次の天岩戸神話であるが、天照大御神が天岩戸に隠れる原因となったのは、弟の速須佐之男命の乱暴狼藉だったが、それは、部屋に大便をぶちまけたり、神馬を生きたまま皮を剥いで投げつけたり、それを投げ込んだ神聖な機屋にいた機織り女はこれを見て驚き、梭ひで女性器を突いて死んでしまうといった行動で、なかなかアナーキーで、80年代のV&Rプランニングに見られたヴァイオレンスに満ちたものだった。それに怒った天照大御神は天岩戸に隠れるが、そのおかげで高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて闇になり、困った八百万の神々は、何とかして天照大御神を天岩戸から出そうとするが、その時にとった手段は天宇受売命のストリップだった。では、原文を見てみよう。
爾高天原皆暗、葦原中國悉闇。因此而常夜往。於是萬神之聲者狹蠅那須【此二字以音】滿※、萬妖悉發。是以八百萬神於天安之河原、神集集而、【訓集云都度比】 高御産巣日神之子、思金神令思【訓金云加尼】而、集常世長鳴鳥、令鳴而、取天安河之河上之天堅石、取天金山之鐵而、求鍛人天津麻羅而、【麻羅二字以音】 科伊斯許理度賣命、【自伊下六字以音】 令作鏡、科玉祖命、令作八尺勾之五百津之御須麻流之珠而、召天兒屋命、布刀玉命【布刀二字以音下效此】而、内拔天香山之眞男鹿之肩拔而、取天香山之天之波波迦【此三字以音木名】而、令占合麻迦那波而、【自麻下四字以音】 天香山之五百津眞賢木矣根許士爾許士而、【自許下五字以音】 於上枝取著八尺勾之五百津之御須麻流之玉、於中枝取繋八尺鏡、【訓八尺云八阿多】 於下枝取垂白丹寸手靑丹寸手而、【訓垂云志殿】 此種種物者、布刀玉命、布刀御幣登取持而、天兒屋命、布刀詔戸言白而、天手力男神、隱立戸掖而、天宇受賣命、手次繋天香山之天之日影而、爲鬘天之眞拆而、手草結天香山之小竹葉而、【訓小竹云佐佐】 於天之石屋戸伏氣【此二字以音】而、蹈登杼呂許志、【此五字以音】 爲神懸而、掛出乳、裳緒忍垂於番登也。爾高天原動而、八百萬神共咲。 
神がかりして乳房を掻き出し、裳の紐を女性器まで押し垂らして半狂乱で日本最初のストリップを演じた天宇受売命に八百万の神々はやんやの喝采で大いに盛り上がり、それが気になって天岩戸の扉をそろそろと引きあけた天照大御神を引き出すことに成功するのである。天照大御神も盛り上がるストリップが見たかったのであろう。
ところで、ストリップというものは、過激でいやらしいほど盛り上がる。浅草ロック座のような、踊り子や劇場が誇りを持って行う明るくて素晴らしいショーではダメで、本番生板ショーが舞台で行われていたり、お触りがあったりと「アングラで陰湿」がある方が正統派だと私は思う。そういう意味では、初期の渋谷道頓堀劇場やDX東寺の素人大会の姿こそがストリップの醍醐味である。ちなみに、渋谷道頓堀劇場は2008年11月、経営者とダンサー、従業員らが、公然わいせつ及び同幇助の罪で逮捕され、2009年3月6日より240日間の営業停止処分を受けた。ストリップに関しては、うちの近所の布施というところにも晃生ショー劇場というストリップ劇場があるが、私は残念ながら行ったことはない。
最後に大物主神の丹塗りの矢伝説である。まずは原文を見てみよう。
(原文)
故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。此二字以音。下效此。爾其美人驚而、立走伊須須岐伎(此五字以音)、乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、卽娶其美人生子、名謂富登多多良伊須須岐比賣命、亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣。
美和は今の三輪のことであり、大物主神は大国主神と同一神とされ、三輪山に鎮座する神である。その大物主神が美人、すなわち勢夜陀多良比売を見染め、「丹塗矢」という赤い矢にその姿を変えて糞まれる川を流れていき、川沿いの厠で大便をしていた美女のホト(女性器)をついた。びっくりした美女が矢を持ち帰ったところ、家に帰ると矢はイケメンの男性に変わり、合体して子供ができたという話である。山城国風土記にも賀茂の御祭神の話として同じような話が載っており、赤い矢は勃起した男性器を意味する。しかも、この話にはスカトロジーまで含まれている。その結果、生まれたのが子供が比売多多良伊須気余理比売で、神武天皇の皇后だ。
このほかにも、「奥手な少年の側から押し倒して、上手くいった話」と解釈されているが、実質的にはお姫様が「上手に誘導した」可能性のある「(男が)来た (互いに)見た (すぐに)やった」という感じの名シーンの大国主神の妻問いや、女装の美少年(日本武尊)が、マッチョなおっさん二人を尻から剣を突き刺して殺害するために宴会に潜入する、アナルセックスを暗喩するシーンや、古代のドレスをきた絶世の美女に香りのよい油をかけ、スケスケミルミルで見えそうで見えない腐らせた衣服とかつらをかぶって、捕まらないように佐保姫が逃げるシーンをはじめとして、古事記はエロ表現がてんこ盛りのわいせつ図書である。
日本には、こうしたわいせつ物頒布等の罪を規定する刑法175条があって、その条文によると、わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする(第1項)。有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする(第2項)。ここで言われる猥褻とは、「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する」こととされるが、しばしば社会的に大きく問題とされることがある。これまでに本条の適用が問題になった例として代表的にチャタレー事件や、悪徳の栄え事件がある。
チャタレー事件は、露骨な性的描写があったイギリスの作家D・H・ローレンスの作品「チャタレイ夫人の恋人」を日本語に訳した作家伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件で、日本国政府と連合国軍最高司令官総司令部による検閲が行われていた、占領下の1951年(昭和26年)に始まり、1957年(昭和32年)の上告棄却で終結した。わいせつと表現の自由の関係が問われた。最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。
わいせつの三要素
1.徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、
2.通常人の正常な性的羞恥心を害し
3.善良な性的道義観念に反するものをいう
公共の福祉
性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当である。
悪徳の栄え事件は、澁澤龍彦ならびに現代思潮社社長石井恭二は、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を翻訳し、出版したが、同書には性描写が含まれており、これがわいせつ物頒布等の罪に問われたものである。第一審はチャタレー事件の審査基準を引用し、わいせつの三要素のうち1点が該当しないとして無罪を言い渡した。検察側が控訴したところ、第2審では逆転して、石井を罰金10万円に、澁澤を罰金7万円に処する有罪判決となった。これに被告人たちが上告するが、最高裁判所昭和44年10月15日大法廷判決は以下の趣旨により、被告人の上告を棄却した。
「…芸術的・思想的価値のある文書であっても、これを猥褻性を有するものとすることはなんらさしつかえのないものと解せられる。もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であっても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない」。
わいせつとは何か、わいせつは規制すべきかどうかについては賛否両論、様々な意見があると思うが、わいせつの三要素を考えると、日本最初の神話である古事記もわいせつにあたるのではないだろうか?
わいせつを規制する動きも、開国を迫ったペリー提督はアメリカ政府にある報告書を提出した話が有名だ。ペリーは日本人の礼儀正しさを評価しながらも「驚くべき習慣を持っている」とありのままに当時の光景を伝えた。続けて報告されたのは「ある浴場での光景だが、男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」というもの。つまり、この日本そのものが誕生したきっかけともされる混浴文化に、目を丸くしたという。加えて、わいせつな図画がいたるところで見られる状況にも「人が汚らわしく堕落したことを示す恥ずべき烙印でもある」とかなりの激怒っぷりを発揮したペリーであるが、実際、江戸幕府から明治政府へと実権が切り替わるさなかで、国内でも警察の取り締まりが始まったという。明治5年には今でいう「軽犯罪法」にあたる「違式詿違(かいい)条例」を制定。自宅で裸になりノミ退治をしていた主婦が捕まった事例もあるほど厳しいものであったが、庶民の憩いの場でもあった銭湯もみずからの地位を守ろうとした。つまり、わいせつかどうかは別として、日本には古来よりエロを許容する文化や社会であった。そして、これを規制する動きが始まったのは、キリスト教的道徳が持ち込まれた明治以降の話である。
ところで、先日読んだ「アダルトな人びと」(足立倫行著 1992年)のあとがきとも言える「取材ノートから」に気になることが書かれてあったので、ちょっと紹介したい。アダルトビデオにおけるモザイク処理に関する日本ビデオ倫理協会会長の意見であるが、いくら性表現の自由化が進んだとしても、将来も、モザイク処理が消えない理由として、「日本には日本独自の道徳観があり、歯止めが必要」と言っているのであるが、その道徳観とやらが、いつ、何が理由で形成されたものなのか問い直す必要があるように思う。例えば、著者がアダルトビデオとの共通性を感じている江戸文化の粋の一つと言える浮世絵の中に多く含まれる枕絵にはどう対応するのだろうか?枕絵には性器がデフォルメされてモロに描かれている。彼らは、春信、清長、歌麿、北斎、国貞らの作品にモザイク処理するのだろうか?ちなみに、日本ビデオ倫理協会の事務職員はすべて警視庁ОBで、いわば、あからさまな天下り先である。

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