見出し画像

13.男子校と言う特殊な環境

漫画雑誌『別冊少女コミック』において1972年3月号から1976年6月号に断続的に連載された萩尾望都の『ポーの一族』の一篇に『11月のギムナジウム』という漫画がある。この作品はいわゆる「ギムナジウムもの」と呼ばれ、フランス映画『悲しみの天使』をモチーフとしてドイツのギムナジウム(高等中学)を舞台に、人間の愛という普遍的かつ宗教的なテーマを描いた作品である。「ギムナジウムもの」はJUNE系、少年愛の漫画で、萩尾望都の先の作品以外に竹宮惠子の「風と木の詩」がある。
「風と木の詩」の概要は、19世紀末のフランス、アルルのラコンブラード学院の寄宿舎で繰り広げられる、思春期の多感な少年達を中心とする物語である。愛欲、嫉妬、友情など、さまざまな人々の想いが交錯するなか、運命に翻弄される2人の主人公、華麗なジルベールと誠実なセルジュの切ない愛が描かれる。「少年愛」のテーマを本格的に扱った漫画作品であり、少年同士の性交渉、レイプ、父と息子の近親相姦といった過激な描写は当時センセーショナルな衝撃を読者に与えた。
ちなみに、わが母校にも「メロンクラブ」というゲイのサークルが存在し、新入生を勧誘して廻ると、昔函館の中学生の間で噂されていた。ついでに言うと鹿児島の兄弟校にも「谷山の噂」という逸話があり、鹿児島○○○○の生徒(関西出身や福岡出の寮生・下宿生)と地元の中高生の確執があった。長渕剛は南高出身で、抗争していた某私立を公共の電波を使ってゲイであると中傷、ほどなくその番組を降板させられた。南高のDQNは某私立に倣い、関西で普及していた道具をいち早く入手し、旧市内のDQNを威圧していたという。
では、ギムナジウムとは何であろうか?
ギムナジウムの語源は古代ギリシアのギュムナシオンで、若い男性が身体や知性を磨くための場所であった。ドイツでは主に大学への進学を希望する子供たちが進学する9年制(2004年からは8年制となり、G8「ゲー・アハト」と呼ばれる)の学校であり、日本でいう中高一貫教育にあたる。教育内容は学校ごとにそれぞれ異なり、ギリシア語・ラテン語・ヘブライ語などの古典語や、英語・フランス語などの近代語、理数系の教科に重点を置いたものなど、いくつかのタイプがある。ギムナジウムは大学入学を目指すための学校で、それはつまりアビトゥーア合格を目指すということでもある。
確信は持てないが、英国のイングランドおよびウェールズにおける私立の中等教育学校である「パブリックスクール 」もこのギムナジウムの伝統を受け継いだものと考えられる。イングランドおよびウェールズのパブリックスクールは、イギリスのジェントルマン階層の子弟(あくまで男子)を養成するものとして、深くイギリスの社会の中に浸透している。大部分は寄宿制であり、一流大学進学を前提とする裕福な階層の子ども達が、厳格な規律の下に集団生活を送っている。自由と規律、公正なスポーツマンシップと互いの尊重など、イギリスの教養ある人士の基本となるものを身に着ける為の学校であるとされる。
そこで、わが母校である。函館ラ・サール高等学校は1960年(昭和35年)にカトリックの修道会によって、函館市日吉町に設立。名称の由来は、1651年にフランスに生まれ、財産や栄職を捨てて生涯を青少年の教育に捧げ、 近代教育に偉大な業績を残したフランスの聖J・B・ド・ラ・サールで、その遺志を継ぐ人々の集まりがラ・サール修道会を組織している。本部はイタリアのローマにある。ラ・サール修道会は現在、世界中で1081校を経営し、約6000人の修道士(ブラザー)がいる(教育のための修道会の中では最大規模である)。
1999年4月、函館ラ・サール中学校が開校され、中高一貫教育がスタート。人間教育と進学教育の両立をさらに高いレベル(どう言うレベルかは分からないが・・・)で推進することが可能となったそうだ。ちなみに、フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、その著作である『監獄の誕生 監視と処罰』で、この聖J・B・ド・ラ・サールの『キリスト教学校同胞会の義務論』と言う本を紹介している。少し引用してみよう。
「細部の卓越性を重視するこうした大きな伝統に、やがて難なくつけ加わるようになるのがキリスト教教育に学校ないし軍隊での教育方法に、最後にすべての訓育形式に含まれる細部重視策である。真の信仰者にそうであるように、規律・訓練を加えられる人間には、どんな細部もが無関係ではない、しかも、その細部に隠される意味の点でよりも、その細部を把握したいと望む力がそこに見出す手掛かりの点で無関係ではないのである。その意味で特徴的なのは、J・B・ド・ラ・サールが『キリスト教学校同胞会の義務論』のなかで褒めて歌っている、「些細なもの」およびその永遠の重要さへの大賛歌である。その賛歌では、日常的なものへの盲目的信奉が微細な物事に関する規律・訓練と結びついている」
これは近代の社会装置、とりわけ権力と監視、そして処罰の装置について考える上で重要な点ではないかとミシェル・フーコーは主張しているように思われる。
話は変わるが、男子校の悲しいところは、日常的に女の子と触れ合えないことである。中には函館の他の学校や女子高に彼女がいたヤツもいたが、それはごく少数派である。日常的に接する女性は食道のおばちゃんという悲惨さだ。唯一のマドンナは理学博士号を持った生物の村元先生の助手の佐々木さんくらいではなかっただろうか?
そういうわけであるから男子校生ならではの日常生活の愚痴が出てくることになる。
例えば、
・席替えがドキドキしない
 実際、席替えがあっても中学生の時に比べたら全くときめきがなかった。
・女性との会話の経験値が圧倒的に少ない
 これが原因で大学時代、彼女ができなかった。
・体育祭がガチすぎて生きるのが辛い
 男臭いのは誰でも厭だろう。
・男子校だったんで彼女出来ませんでしたという言い訳
 中学3年生の時に付き合っていた女の子以降、サラリーマンになるまで彼女ができなかった。
・体育の後パンイチで授業を受けていたら叱られる。
 制服がないので下着のパンツではないが短パンの生徒は確かにいた。
・もう男でもいいかなって思ってしまう
 これはさすがになかった・・・
・中高男子校から理系進学すると末期
 私は美術大学に進学したのでこの噂の真相は分からない。
・昼休みに2~3階の窓から牛乳瓶が降って来る
 食事はいつも寮で取っていたのでこれはない。
・基本的には楽しいんだけど、たまに寂しさを感じる時がある
 高校時代はパンク・ニューウェーヴにはまっていたので楽しかった。
・放課後あんまりあそばない
 放課後は部活動に燃えていた。それに、函館は大阪に比べ遊び場が圧倒的に少ない。
・楽しかったけど女の子がいないのはやっぱり致命傷だな
 そりゃ高校時代に女の子がいたら私の恋愛遍歴は変わっていただろう。
・大学で彼女ができると思っていたが、実際できてない今は男子校だったことを言い訳に・・・
 私の場合は女の子よりも音楽だった(言い訳でしかないが・・・
では、もし、女子高だったらどうだろうと興味があってネットで調べると、
・正直赴任したばかりはちょっとウキウキしていましたが、女子校って教室の中もロッカーも不潔ですよね。(某女子高教師)
・体育のあととか、教室に男の先生いるのにみんなブラ丸出しで着替えたりして、中には「先生これ可愛いでしょー」とかいって、先生からかうつわものもいました。 でも、先生も慣れたもので「ハイハイ早く着替えてね」と軽くあしらっていました。(某女子高教師)
・女同士だからつい気が緩むんだよね。 一年間ジャージ置きっぱなしで持って帰って洗わない子には驚いたが。(某女子高教師)
と言うように、まあいろいろ話が山と言うほど出てくるのである。
結局は同じ穴の狢かな・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?