アル中地獄(クライシス)

いま、「アル中地獄(クライシス)―アルコール依存症の不思議なデフォルメ世界」(邦山照彦著、第三書館)という本を読んでいる。著者の邦山照彦氏は飛騨高山に生まれ、20代のとき神奈川県で始めた貸しカメラ商法が大当たりし、レストラン経営などで青年実業家として成功するが、その後アルコールの泥沼に溺れ事業に失敗してアルコール依存症(アル中)になって故郷高山や神奈川の精神病院を史上最多の36回も入退院を繰り返すことになった。アルコール依存症を扱った医師やケースワーカーなどの著書は数多くあれども、患者自身が自分自身の体験を書いた記録的な書物は「アル中地獄(クライシス)―アルコール依存症の不思議なデフォルメ世界」が唯一ではないだろうか。私自身も闘病記を電子出版しているが、ここまで壮絶な体験はない。しかも入院はたったの5回である。
この著書で描かれているのは、アルコール依存症の男性患者(邦山氏)が精神病院(閉鎖病棟+開放病棟)に入院し、精神病院という異空間の体験とそこに蠢く患者たちの生態を綴った、現在アルコール依存症と闘うアルコール依存症者同志とその家族の人たちのための闘病・克服体験記だ。そこで語られる凄まじい幻覚幻聴は、あの中島らも氏が「これほどまでの劇的な幻覚の記述は少ない」と感嘆したほど凄まじいものである。
アルコールの離脱症状は震顫繊毛に始まり、二人組が邦山氏を殺そうとして2階へ上がってくる靴音や話し声が鍵穴から聞こえ(幻聴)、恐怖のために自宅の壁に穴をぶち開けてしまったエピソードや、入院してからは、本人曰く「何というものすごい幻覚だろう!」と言うほど、黄色い円盤状の物体の襲来や、頭が割れて脳細胞がバラバラになって病室のあちこちに飛び散り、他の患者にも手伝ってもらってそれをひとつひとつ拾ってジグソーパズルを作るように頭に嵌めていく光景や、面会室に行く途中に空間が45度傾き、這ってしか面会室に行けなかったことなど、恍惚・絶頂・禁断の幻覚幻聴世界である。邦山氏に言わせれば、アルコール依存症者の幻覚は、シンナーや覚せい剤、モルヒネなどと比べると、その行動のドラマチックさにおいて他の追随を許さない。
読み物としては日本一のアル中男が地獄をめぐり、極めつくした面白すぎて怖くなる体験記で、健常者にとっては面白おかしいシュールな描写だが、そこには人類史上最古・最強のドラッグ=アルコールが世紀末文明病として現代日本に蔓延しだしたことを鬼気迫るアルコール依存症患者の描写がされている。
現在アルコール依存症者の数は、厚生労働省の「知ることからはじめよう みんなのメンタルヘルス 総合サイト」によれば2003年の調査結果で飲酒日に60g(純アルコール量として)以上飲酒していた多量飲酒の人は860万人、アルコール依存症の疑いのある人は440万、治療の必要なアルコール依存症の患者は80万人いると推計されている。この著書が書かれてから数年経つがその数は倍増している。
私自身アルコール依存症の患者なので、邦山氏ほどの壮絶な幻覚幻聴はなかったものの、多かれ少なかれ精神病院のアルコール病棟に入院している、或いは経験のあるアルコール依存症患者にとっては身に沁みる記述のオンパレードであろう。また、同じ断酒会に入会しているアルコール依存症患者や、その予備軍と見られる男性や女性のあとをつけて行って飲酒する瞬間を垣間見るなど、私と同じような好奇心を持ったアルコール依存症者なので共感するところが多い。断酒会やAA(アルコホリクス・アノニマス)のミーティングが終わるやいなやひっそりと酒を買って飲むアルコール依存症者のなんと多いことか。
ちなみに、邦山氏が主に入退院を繰り返していたのは、飛騨地域唯一の入院精神医療機関である医療法人生仁会 須田病院だ。
精神病院は多種多様な人が集まっている。そこには「健常者」にとっては常識も良識も存在しない、別の論理と価値観に生きる「異常者」の異次元世界である。また、年齢、身分、職業、地位、経歴など全く異なった人種が、それらの相違を超えた連帯感や親近感で結ばれ、ボス的な上下関係はあっても、弱者に対する差別意識がないことも精神病院の特徴だ。シャバでどんなに権威・権力を持っている人であっても、一旦精神病院の門をくぐればそんなシャバの権威や権力は有害であってなんの助けにもなってもらえない。
著書の中で邦山氏の主張は一貫していて、著書の中で何度もアルコール依存症に対する無知と偏見を取り除くために「各人は異常なことにおいて平等である」と記している。とかくアルコール依存症は誤解され、偏見の目で見られる精神疾患である。しかしそうしたアルコール依存患者を平等に見なければ治療の妨げになる。
アルコール依存症からの回復には断酒が大前提になっているが、この邦山氏は今では晩酌程度の酒を飲んでいるという。ということは断酒が唯一の道ではないということだ。加減をすれば飲みながらでもアルコール依存症から回復できる。これは長年の私の体験からも言えることで、改めてこの著書を読んで納得したものである。

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