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阪神淡路大震災から24年を振り返る

大阪南部に住む私ですが、今から24年前の1995年1月17日を忘れることはありません。去年の9月の台風も怖かったけれど、阪神淡路大震災が今までいきてきた中で、恐怖と涙をたくさん流したことはないでしょう。

1995年1月17日。私は、自宅から当時勤めていた会社に出勤するために、早起きで午前5時40分に起きるのが決まりでした。
しかし、その日は起きようとした数分前に、遠くから地響きが聞こえてきました。ゴゴゴゴゴと今まで聞いたことがない音が外から聞こえました。

「こりゃ、何かへんや!」という父や母の声が聞こえて、起きようとした時に、ドンと縦に響く感覚がして、それから激しく揺れました。
慌てて布団をかぶって「きゃー!」と悲鳴を思わずあげました。

棚にある全てのものが落ちてきて、本棚も倒れそうになり、テレビも台から落ちそうで、布団をかぶりながら本棚を抑えていました。

揺れがおさまってから、慌ててテレビをつけてみると、NHKは緊急速報で地震発生を報道していて、私は、父や母、そして祖母が無事か台所にいきました。

幸い家の中で倒れたものはなく、タンスの上のものが落ちてきたぐらいですみました。

家族全員無事で、ちょうど早朝の散歩に出ていた祖母は、当時飼っていた犬と外で激しい揺れで、思わず犬を抱きしめて地面に座り込んでいたと聞きました。

そして、当時大阪市内に住んでいて、会社が神戸にある兄夫婦にも慌てて連絡を入れて、無事であることを確認しました。

その後、どんどん入ってくる情報に、神戸での被害がひどいと知り、よく買い物に出かけていた三宮近辺が燃え盛り、高速道路が倒れていて、もうどうなるのだろうと涙が出ました。

その日は、余震が大阪でも何回もあり、会社の上司から連絡が取れたのは、17日の午後。電車はその日は運休で動けなかったし、会社自体(大阪市内)は被害はなかったものの、書棚が私が座っていた机に倒れていたり、書類などが散乱して、女性は危険なので、翌日まで休みとなりました。

神戸方面からきている同僚や、別の部署の方は、出社できるまで1週間以上かかった方もいます。家が半壊し、ガス漏れで避難命令が出たり、最寄駅が倒壊して、引っ越しをしなければいけない人は、ようやく会社に出てこれた日は、大声で泣いていました。

友人や家族を失った方が多く、しばらくの間、会社は暗かったです。

兄に関しては、神戸の三宮にある会社にいたのですが、ビルの一部が折れかかっていて、その当時在籍していた部署だったので、もし早朝ではなく、昼間だったら、間違いなくこの世にはいなかったでしょう。

神戸が徐々に回復するには、かなり時間がかかりました。
もう大丈夫という宣言があっても、なかなか神戸へ行く勇気が出ませんでした。

地震から2年経った春に、やっと三宮へ行き、元気になってきた神戸を実感しました。今は、三宮もすっかり元に戻ったところと、変わったところがあるけれど、おしゃれな街であることには変わりありません。

しかし、あの揺れが大阪の南部にまできたのは驚きで、いろんなものが落ちてきたという恐怖は忘れないし、揺れる前の地響き音は忘れることはありません。

明日、午前5時46分は、娘の学校のしたくがあるので、当然起きていますから、この時間は黙想をして、地震で亡くなられた人の冥福を祈ります。

去年は、台風や豪雨被害に地震と多い年でしたが、今年は大きな自然災害がないことも祈りたいです。

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