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かつて僕が愛した者への鎮魂歌

要旨
 本稿では、マイケル・ジャクソンのライブの本質について、1995年のMTVビデオ・ミュージック・アワードでのパフォーマンスを取り上げて考察した。音楽家としてだけでなく、一人の人間としても窮地に立たされたマイケルが、如何にしてステージ上で復活を遂げたのか。その過程を追体験することで、稀代のアーティストの核心に迫りたい。


HIS STORY
 2022年の今も、「マイケル・ジャクソン」という名を知らない人は少ないだろう。エルヴィス・プレスリーやビートルズを知らない人が多分ほとんどいないように。マイケル・ジャクソンはそれほどまでに偉大なポップスターだった。

 マイケル・ジャクソンは、1958年8月29日にジョー・ジャクソンとキャサリンの五男としてインディアナ州ゲイリーに生まれた。父親ジョーの母方の曽祖母はドイツ系白人、そして父方の曽祖父はチョクトー・インディアン。母親キャサリンにも、ネイティブ・アメリカンの血が入っている。つまりマイケルはアフリカ系アメリカ人でありながら、コーカソイドとモンゴロイドの血統も受け継いでいるのだ(1)。ジョーとキャサリンは1949年11月に結婚し、六男三女をもうける。1950年代から60年代にかけてのゲイリーは没落した工場地帯であり、製鉄所で働いていたジョーの一時解雇期間も長期化し、ジャクソン・ファミリーは極貧生活のなかで暮らしていた。そんなある日、子どもたち、とくに男兄弟の音楽の才能を見抜いたジョーは、彼らに虐待と隣り合わせの英才教育を施すようになる。

 かくして頭角を現した長男ジャッキー、次男ティト、三男ジャーメイン、四男マーロン、五男マイケルは、1969年にモータウン・レコードからジャクソン・ファイブとしてデビュー。兄弟たちはデビューシングルの「I Want You Back」から「ABC」、「The Love You Save」、「I'll Be There」までの4曲が連続でナンバーワン・ヒットになる。1975年にエピック・レコードへ移籍し、グループ名もザ・ジャクソンズに変更。ところがマイケルの人気と実力は飛び抜けており、モータウンに残留したジャーメインが脱退し、新たに六男ランディが加入したザ・ジャクソンズのパワーバランスは徐々に崩れてしまう。1984年12月にマイケルがザ・ジャクソンズを脱退するとグルーブの人気は凋落し、1989年に事実上の活動休止を余儀なくされる。

 一方、マイケルは1979年にエピック移籍後初となるソロアルバム『OFF THE WALL』を発表。今作を皮切りに、プロデューサーのクインシー・ジョーンズとともにセカンドアルバム『THRILLER』(1982)とサードアルバム『BAD』(1987)を発表。『THRILLER』は現在までに全世界で1億枚以上のセールスを記録し、世界でもっとも売れたアルバムとなる。このアルバムによってマイケルは、グラミー賞史上初の8部門を受賞した。また、1980年代初頭まで白人アーティストのミュージック・ビデオしか流さなかった(黒人アーティストの作品は全体の3パーセントにも満たなかった)MTVが、マイケルの「Billie Jean」と「Beat It」のミュージック・ビデオを黒人アーティストとしてほぼはじめて放送している。とくに「Thriller」のミュージック・ビデオの影響力は凄まじく、2009年12月にはミュージック・ビデオとしてはじめて、米国議会図書館によってアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。この登録簿には数百本の映像作品しか登録されていない。1985年には、アフリカ飢餓救済のために結成されたUSA・フォー・アフリカのメンバーとして、ライオネル・リッチーともに「We Are The World」の作詞作曲をてがける。このグループには当時人気絶頂のアーティスト、たとえばレイ・チャールズ、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン、ダイアナ・ロス、スティーヴィー・ワンダーなどが参加し、20世紀を代表する楽曲になった。こうした革新的な音楽と映像革命によって、マイケルは人種の壁を超越した存在として、1980年代末には「キング・オブ・ポップ」と称されるようになる。

 その後はクインシーと袂を分かち、1991年にフォースアルバム『DANGEROUS』、1995年にフィフスアルバム『HISTORY PAST,PRESENT AND FUTURE BOOK 1』、1997年に『Blood On The Dance Floor/HISTORY In The Mix』、2001年に遺作となるアルバム『INVINCIBLE』を発表。2009年6月25日にロス・アンジェルスで滞在していた家で心臓発作のため50歳で急死。死後に公開された映画『THIS IS IT』が大ヒットするなど、現在も根強い人気を誇っている。

Blood On The Dance Floor
 
マイケル・ジャクソンは孤独なスーパースターだった。というより完全に孤立したスーパースターだった。その点で他のあらゆるレジェンドたちと異なっている。あたかも彼だけが、この世でたった一匹の、別の動物であるかのようだった。彼はあらゆる人間たちの好奇の視線にさらされ続けた。彼はおびえて引きこもった。そのことが人間たちの嗜虐的な好奇心をさらに煽り立てた。

 人々はなぜあれほど執拗にマイケルに関心を持ち続けたのだろう。なぜあれほどに賛美し、賞賛しながら、軽侮し、嫌悪し、憎悪し続けたのだろう。一つ言えることは、人々は誰よりもステージ上のマイケルに熱狂し、ステージを降りたマイケルに落胆していたことだ。たとえば、1994年2月に行われた「ジャクソン家の名誉」というイベントにマイケルが出演しなかったことについて、ニューヨーク・ニュースデイ紙のリズ・スミスは、「マイケルがアメリカ人の心に再びその姿を取り戻す唯一の手段は、彼が歌い、踊ることだ。彼に対する非難や罵倒は例の告発のためではない、彼が歌おうとしなかったことのためなのだ」(2)と述べている。

 大衆はマイケルの生み出す音楽と映像に熱狂しつつ、彼の風変わりな私生活には好奇の視線を向け続けた。とくにマイケルの容姿の変化や、彼の住宅「ネヴァーランド・ヴァレー」(1988年5月に購入したこの牧場には、マイケルの邸宅のほかに、動物園や遊園地が併設されていた)は、大衆の好奇心に迎合するマスコミの格好の餌食となった。人々はマイケルの整形を論じ、白くなる肌を論じ、彼の幼児性、人嫌いをあげつらい、嘲笑した。そして、それまで好意的に受け取られていたマイケルの「子ども好き」も、「例の告発」(2)によって一転する。1993年8月17日にロス・アンジェルス警察が、ある少年からの虐待の申し立てを受けて、マイケルにたいする犯罪捜査を開始したのだ。1994年1月26日に示談が成立するものの、少年虐待疑惑は、マイケルのミュージシャンとしてのキャリアに留まらず、その人生をも大きく狂わすことになる。

 少年虐待疑惑の訴訟騒動への常軌を逸したバッシングが続くなか、マイケルの言葉に耳を傾けるものはなかった。ゴシップのみが拡大し、信じられ、共有されていくようになる。裁判が行われる前から、有罪であるかのような報道が繰り返されて、マイケルが大金を払って和解したことが明るみになると、よりいっそうマイケルへの疑いは深まってゆく。そしてこのような経緯が報道されると、マイケルの財産を目的とした「1993年の訴訟」(3)の模倣犯が幾度となく現れるようになる。マイケルの音楽を支持していたはずの大衆もまた、変質者マイケルのイメージに熱狂した。2003年の裁判の判決は無罪だった。マイケルの肌が白くなったのは尋常性白斑という病気の結果であった。2009年12月22日には、1992年から2005年までの13年間にわたりマイケルを少年虐待者として監視し、調査を続けてきたFBIが、情報公開法に基づいて全333ページに及ぶ膨大な資料を公開した。その結論は、以下の通りである。

歌手マイケル・ジャクソンの私生活を10年以上モニターした結果「性的虐待」の加害者とみなす証拠は何一つ見つからなかった。

2022月3月22日現在、この資料はFBIのホームページ(https://www.fbi.gov/)からなぜか削除されており、閲覧することができない。

 驚くべきことに、この事実が報道されることは殆どなかった。そして今でもマイケルの少年虐待を信じ、彼の肌の変化を白人コンプレックスの結果だと信じる人々は多い。大衆は事実ではなく、ゴシップを信じることを望んだのだ。

 そんな状況に対してマイケルは無力であり、現実的な対応策を持たなかった。もちろん大衆は、マイケルが有効な反論を述べられないことがわかっていた。だからこそ寄って集って叩きのめすのであり、人々にとってマイケルは人間ではなくスケープゴート、世界規模の生贄に過ぎなかった。

 マイケルにできることは、ステージに上がることだけだった。マイケル・ジャクソンにとって、ステージから離れることは死を意味していた。ステージ上で歌い踊ることによってのみ、マイケルは他者とのつながりを持つことができた。だから、マイケルはステージに立ち続けねばならなかった。エンターテイナーとして、大衆からの支持を受けることでようやく生きることが許される存在。それが、マイケル・ジャクソンだった。

 マイケルは、危機的状況に陥るたびにステージに立ち、すべての否定的言説を焼き尽くすことで生者として再び息を吹き返す。ステージ上での死者から生者への劇的な転換こそが、マイケル・ジャクソンのライブの本質である。そしてその最たる例が、1995年9月7日に行われたMTVビデオ・ミュージック・アワード(4)での15分間に及ぶメドレー形式のライブであり、1993年11月以来となるこのパフォーマンスは、音楽家として、あるいは一人の人間としての生命をかけたステージであった。

1995 MTV VIDEO MUSIC AWARDS PERFORMANCE
 この日のマイケルは音の化身であった。「Don 't Stop 'Til You Get Enough」のスリリングなイントロが会場に響きわたり、幕が上がる。ほのかな明かりが、マイケルの特徴的なシルエットを浮かび上がらせる。その男は小刻みに首を振っているようだ。男が一回転し、一瞬両腕を平行に広げると、衝撃音とともに音が止む。男は直立不動のまま、微動だにしない。男は首を右に振り、そしてジャケットを脱ぐ。この間、眩いばかりの照明と観客の歓声だけが聞こえている。マイケルが指で合図を出すと同時に、舞台上から火柱が立つ。この時にはすでに「The Way You Make Me Feel」が流れている。男は首を振り、腕を振り、股間を掴みあげ、その両足は軽快なリズムを刻んでゆく。間髪を入れず、男の発散する音色は「Scream」から「Beat It」(「Thriller」のヴィンセント・プライスの不気味な笑い声が引用されている)、ついで「Black Or White」へと紡がれる。ここでマイケルが、ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュを呼び込む。このギタリストを侍らせながら、マイケルは吹き上げるスモークの中で雄叫びをあげた。男が腕を十字に切るとけたたましく音が鳴り、腕を振り下ろせば火炎が上がる。それから男はステージを駆け回り、その特徴的なシャウトを披露し、最後にステージ中央で跳躍すると4本の火柱が吹き上げた。

 スラッシュが退場し、マイケルのシルエットがスクリーンに映し出される。男を象徴する「Billie Jean」のビートが鳴り響くなか、その輪郭だけが躍動する。ついにマイケルが幕の後ろから姿を現した。男は被っていたハットを投げ捨てると、「Billie Jean」をサビから歌い始める。そしてベースラインが鳴り響き、男は前進するかのように滑らかに後退してゆく。ムーンウォークだ。ハットを被りなおした男の姿だけを、照明が照らし出す。あの強烈なビートだけが聞こえてくる。ここからはマイケルの独壇場。

 瞬きにも似たかすかな音の振動を男は見逃さない。当然だ。僕たちがその映像を通じて目にするあらゆる現象の隅から隅まで、その男が支配しているのだから。時計仕掛けの人形のように、男は寸分の狂いもなく動く。しかしただ動くだけではない。男の身体から発現した音とその動作、そして映像は不可分に結びついている。男の身体を拠り所として、音の波は砂塵のように舞い上がる。あるときには飛散し、またあるときには収斂されてゆく。それはマイケルだけが使うことのできるとくべつな魔法だった。

 「Billie Jean」の終わりに、マイケルはハットを客席に投げ捨てた。万雷の拍手喝采を浴びながら、その男は天を仰ぎ、両腕を水平に広げたまま静止している。この瞬間、マイケルは社会的に抹殺されかかった存在から、踊りによって他者との繋がりを回復した生者として再生を遂げたのだ。男は息を整えながら、共演者に簡単な謝辞を述べ、そして静かに微笑んだ。そこは彼のほとんど唯一の居場所であり、その聖域に留まる彼を脅かすものはなく、彼は安心して眠ることができた。しかしその場をひとたび離れた彼を待つのは、迫りくる地獄の業火であり、ついに彼はその大火から逃れることができなかった。それでも彼はその身を焼かれながら、あまりに多くの犠牲を払いながら、煌々たるパフォーマンスをいくつも残している。僕はそんなマイケルが好きだった。

 観客席からは妹のジャネットが見守っていた。マイケルとジャネットが共演した少年虐待疑惑以降初となる新曲「SCREAM」のビデオがいくつかのアワードにノミネートされていたからだ(この日、 2人は3つの賞を受賞した)。当時のジャネットは商業的成功を収めると同時に、高い音楽的評価も獲得している。彼女はマイケルに比肩する、あるいは一時的であるにせよマイケルを上回るスーパースターであった。ジャネットはマイケルの良き理解者として、マイケルを支え、マイケルのためにステージ上で祈り続けてきた。だからこそ、マイケルの復活を誰よりも喜び、讃えていたのは妹のジャネットであったろう。彼女の表情は、この日のパフォーマンスの素晴らしさを何よりも雄弁に物語っていた。その表情は、晴れやかで、慈しみが零れ落ちそうな、それだけで感動的なものであった。



(1)西寺郷太「解説」『MICHAEL JACKSON'S VISION』ソニーミュージック 2010年11月24日 参照。

(2)エイドリアン・グラント『マイケル・ジャクソン全記録 1958-2009』 吉岡正晴訳 ユーメイド 2009年11月13日 292頁。

(3)「1993年の訴訟」については、西寺郷太『マイケル・ジャクソン』(講談社 2010年3月18日)に詳しい。また、2003年の裁判については、アフロダイテ・ジョーンズ『マイケル・ジャクソン裁判 あなたは彼を裁けますか?』(押野素子訳 ブルース・インターアクションズ 2009年5月2日)を参照されたい。

(4)「1995 MTV VIDEO MUSIC AWARDS PERFORMANCE」『HISTORY ON FILM VOLUME 2』 ソニー・ミュージックダイレクト 2001年11月7日。


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