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5/30月:人生のミッションには快楽を。

今日は17時までに明日用のゼミ資料を作り終えることができて、久しぶりに穏やかな気持ちで明日を迎えることができる。

自分に対するハードルを高くすることは、高い向上心を生む一方で、生きることそのものへの幸福感を得にくいものである。

自分のこれまでの成長は、この半ば強迫的な何かに由来する向上心が生んできたという思いがあるから、そこから脱することにはそれ相応の勇気がいるものだ。そこから脱して、自分自身の欲望に耳を傾けながらうまくバランスを取っていく人生にシフトチェンジすることが、自分にとっての新たな成長を作るのだろうと思う。

学ぶこと、成長することは、本来は快楽であるはずだ。何かに抑圧されながら達成されるものでは全くなく、純粋にそれ自体が目的になり得る性質のものである。

以前、自分にとってのミッションとは何なのかを考えたことがある。そのときに思いついたのが、この「学び」というキーワードであった。

可能な限り視野を広く持ち、何からでも吸収して学びに変えようとすること。そして、それを自分の血肉にして少しずつ成長し続けることだ。

この、自分自身にとってのミッションと快楽が結びついた状態こそが、人生における「救済」であると私は思う。その究極の状態に向かって、自分は何ができるだろうか。

あれ、ここまでまた何も考えずに書いてしまったけど、えーと、こういう内容はポジティブな内容と言っていいのかな?

自分が10年後に何をしていたら最も幸せを感じているだろうか。私にとって、最高の状態とは一体何なのか。

元々欲がそこまで無い人間である私は、こぢんまりとした状態をつい思い描いてしまう。特に大きなことをやりたいと思っているわけでもないのだ。

しかし、もう一方でつい考えてしまうのは、自分の持てる能力を使って他人のためになることをもっとできるのではないか、ということだ。

一昨日ある人に言われたのは、「(自分の思考のクセとして)俯瞰して傍観者的にものを見るのはいいが、主権者として自分の力で社会を変えるくらいの意識をもっと持ってほしい」ということだった。

社会を変えるための行動に直結するような自分の内的エネルギーの源が何なのかを自分でも知りたい。

最近は常に行動の足が重たくなっていて、環境デザインの力でどうにかなっているところがある。

どういうときに自分は自ら勝手に動き出せるような感覚を持てていたか。

高校3年生のとき、子どもキャンプでキャンプファイヤーのプロジェクト責任者をやったとき。
誰かの世話を焼くようなとき。
乱雑な部屋を自分の思うとおりに整理整頓するとき。
自分の持てる知見を後輩たちに授けるための講義資料を作るとき。

結局、自分が得意なこと、無意識的にできることに取り組むときなのだろう。自分が苦手な具体的な思考のクセをもっとつけて、自分自身を分析しなければならない。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。