ともやの思考整理日記

博士(工学)取得の28歳。探究学習コミュニティ「探究横丁オンライン」の運営助手。出身地…

ともやの思考整理日記

博士(工学)取得の28歳。探究学習コミュニティ「探究横丁オンライン」の運営助手。出身地域の子育てコミュニティに所属する子・青年たちの相互成長の支援者。本業はエネルギーシステムの安全・リスクの研究者。趣味はピアノと整理整頓。

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「探究横丁オンライン」にコミットしていきたいのです。

来年以降は毎日更新をしないという宣言をした上で、私が発信をやめるつもりか、というとそういうわけではない。 では、今後の発信はどこでやろうとしているか。 主には、自分自身が運営に携わるコミュニティ「探究横丁オンライン」の内部での発信に切り替えようと考えている。 その理由はいくつかあって、まず1つには「探究横丁オンライン」のメンバー向けに、私なりに何らかの価値提供を考えたいということだ。 もちろん今現在のコミュニティにも十分価値はあると考えているが、そこにもう少し価値を乗

    • やはり毎日更新はしんどいのです。

      また1ヶ月ほど毎日更新に戻してみたけれど、どうなのだろうか。 この取組は、自分の人生にとって有効に働いているだろうか? 正直に言うと、微妙なところはある。 結局、「なに書こうかなぁ」と思いながらPCに向かって、あーでもないこーでもないと言い訳を書いて、予約投稿しておしまい、みたいになっている。 書きたいことが沸き上がってくるような気持ちにはやはりなっていない。 それも、原因はおそらくインプットの不足で、自分にとって新しい情報や感覚や環境を自分に積極的に与えられていな

      • リスコミによる当事者意識の醸成が必要なのです。

        リスクコミュニケーション(以下、リスコミ)という言葉がある。 我々の分野では、化学工場等の危険物施設を持つ事業者が、その周辺住民や行政と、その工場が持つリスクなどについて意見交換しながら、リスクについて考えていく営みを意味することが多い。 こうしたリスコミには大きな課題が山積みである。 その1つは、リスコミに参加している1人ひとりが、いかに主体的に、当事者意識を持ってリスコミ臨むことができるか、である。 化学工場が存在することによって、何らかの影響を受ける人々(ステー

        • コミュニケーションにはエネルギーを使うのです。

          人と人のコミュニケーションは大変重要だが、かなりエネルギーを使う営みであることは間違いない。 そのコミュニケーションにこそ人間の幸福や充実感が宿る一方で、トラブルはつきものである。 このトレードオフをなんとか前向きに捉えていきたいところだが、そのように頭でわかっていても、なかなか気持ちがついてこないときもある。 ポジティブな意味での繋がり(良好な友人関係、仕事上での友好的な協力関係など)にも、ネガティブな意味でのぶつかり(ケンカ状態、厄介なライバル関係など)にも、いずれ

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        「探究横丁オンライン」にコミットしていきたいのです。

          責任を持って誰かを支援したいのです。

          自分のやる気やモチベーションが上がるタイミングやきっかけを自分なりに分析した結果、不思議に思っているのは、どうやら直接的に自分自身のためだけに何かをするときではなく、誰かを助けたり手伝ったりする感覚を得られたときにやる気が発動する、ということだ。 人間は本質的に他者貢献から幸福感を得る側面があるとすればこれは自然なことで、私の場合は他の要素(例えば自己実現などからの幸福感)による幸福感よりもそれが相対的に大きい、ということなのだろうと理解してはいる。 しかし、その上でその

          責任を持って誰かを支援したいのです。

          私なりの幸福論も整理しておきたいのです。

          自分自身の生き方を決めるには、自分自身がどのような人間になりたいのか、という大きなビジョンを決める必要がありそうだ。 そのビジョンを決めるとき、さらに考えなければならないこととして、以下のような問いに答えることが必要であるかもしれないと思った。 それは、「人間はどうせいつか死ぬのだから、わざわざ無理して主体性を発揮して生きようがどうしようが関係ない」という論理と、「人間はどうせいつか死ぬのだから、主体的により良く生きていくことが大事だ」という論理、どちらの論理を基にして生

          私なりの幸福論も整理しておきたいのです。

          ダーツの面白さに開眼したのです。

          先日ゴルフを初めて体験した話を書いたが、もう1つ、最近初めて体験したものがある。 それは、ダーツだ。当然ダーツという遊びの存在は知っていたのだが、これまでの人生ではあまり機会に恵まれず、1回も挑戦したことがなかった。 どうしてやってみようと思ったかというと、これもまた先日のゴルフと同じように、研究室の学生たちの話がきっかけだ。研究室のとある学生が、どうやらダーツがとんでもなく上手いらしく、何度か学生たちだけでダーツをしに行ったときにその実力を見せつけられたらしいのだ。

          ダーツの面白さに開眼したのです。

          考えていても説明できないこともあるのです。

          自分がなぜそれをするのか、なぜ今の生き方をしているのか、説明ができないということは、それを考えていないということの証左だ。 ただなんとなくやるとか、なんとなく生きるとか、そういう道を取ることもできるかもしれないが、私は何らかの理由や根拠を必要としてしまう人間だ。 大きめの意思決定をするときには、なんとか自分自身のことを説得、納得させることが必要だ。 ところで、冒頭に言ったことは、ある側面ではそうとも言い切れないところがある、と私は思った。確かに考えていなければ説明できな

          考えていても説明できないこともあるのです。

          ケンカをしない人生は危ういのです。

          ケンカをしないことは良いことだと思って生きてきた。 ケンカをしない方が穏やかな気持ちでいられるし、ケンカをしないと決めることによって自分がイライラすることは少なくなる。 ケンカをしている人や何かに対して怒っている人を見るのは苦手だし、そういう人の近くにいるのも苦手だ。 ケンカを仲裁するほどの勇気もないから、そういう人たちからは自然と距離を取るようになっていった。 しかし、ケンカをしないことは本当に素晴らしいことだったのだろうか? 今振り返って考えると、それがよくわか

          ケンカをしない人生は危ういのです。

          指の関節が鳴るのが気になるのです。

          どうでもいい話だが、私には指の関節をポキポキと鳴らしてしまうクセがある。 いつやっているか、と問われると具体例を出すのが難しいが、結構やっていると思う。それも、ふさわしくない場面でやっている可能性もあるな、と感じるくらい頻繁にだと思う。 このクセは直していかないとなぁと思っているところだ。まぁ、全く気付かない状態からやっと気づいて意識下におかれた状態まで来たのだから、前進ではある。あとは意識的に実践できるかどうかだ。 一方で、非意図的に指の関節が鳴ってしまうタイミングも

          指の関節が鳴るのが気になるのです。

          ゴルフも仮説と検証で上達するのです。

          人生で初めてゴルフをやってみた。 さすがにいきなりホールに出たわけではなく、いわゆる「打ちっぱなし」の施設に行って初めてクラブを握り、ボールを打ってみたのだ。 研究室の学生らが最近ゴルフにハマっているということをよく会話に出していたので、これまでは興味を持たなかったし食わず嫌い感もあったゴルフについて、そんなに面白いのならちょっと体験してみようかな、ということで彼らについていくことにした。 私は全くの素人なので、本当は初心者向けの解説動画などを見て予習したかったところだ

          ゴルフも仮説と検証で上達するのです。

          納得感を作り出すには長い時間がかかるのです。

          昨日、「自分の言葉で語る」ことについて書いたが、これは「言うは易し行うは難し」なことでもある。 特に私は、自分の中で納得感が作られているかどうかがすごく気になるタイプの人間なので、自分が取り組んでいること、あるいは今後やることなすことなどについて、必ず何らかの根拠を必要とする。そしてそれが自分自身を説得できるほどの論理が構築できていないと納得できないところがある。 振り返ってみると、今の自分自身が取り組んでいる各種活動について「なぜやっているのか」を説明することには、もの

          納得感を作り出すには長い時間がかかるのです。

          自分の言葉で語ることが大事なのです。

          なにごとも、「自分の言葉で語る」ということは結構大事だ。 自分はなぜその仕事をしているのか。 なぜその取り組みをしているのか。 突き詰めれば、自分はなぜ今ここに生きているのか。 それらを自分なりに語ることができる人はどれだけいるだろうか。 就職・転職活動などの過程でそれらを行おうと試みる人は多そうだが、自分自身が本当の意味で納得するまで徹底的に考え、言語化できる人はどれだけいるだろうか。 私は、それが大事だとわかりつつも、結構難しいことだと思っているので、もし語れる人

          自分の言葉で語ることが大事なのです。

          踊る人たちを尊敬するのです。

          人はなぜ踊るのか。 なぜそんな疑問を持ったのかと言うと、私は「踊りたい!」と思ったことが全く無いのだが、どうやら世の中には踊りによって何か自分自身を表現したい思う人が一定数いることに気づいたからだ。 よくよく考えてみれば、"踊り"は、おそらく大昔の人類の文化の中にもずっとあったものだと思う。 日本で言えば全国各地にお祭りに伴う踊りがあったり、世界に目を向ければ各地域にそれぞれの文化としての"踊り"があるはずだ。 そういう踊りは、「パフォーマンス」としての踊りだと思う。

          踊る人たちを尊敬するのです。

          一歩踏み出す勇気がないのです。

          先日も触れた本「静かに退職する若者たち」を興味深く読んだ。 そこには、現代的若者の性質の例がいくつか書かれていて、これは上の世代の人たちからすると対応がしんどいだろうなと思うところもあり、一方で、自分も近い世代にいるということからくる彼らへの共感もあり、いろいろと考えながら読むことができた。 現代の若者の就職する企業に対する考えの1つとして述べられていたのが、「企業は自分を成長させる場と機会を用意すべきだ、という思考を持っている」ということだ。 上の世代の人たちから見る

          一歩踏み出す勇気がないのです。

          他者の持ち味を発揮させられる場をつくれるようになりたいのです。

          昨日の文章を改めて読み直して、自分がなぜそのように思ったのか、について思いを巡らせてみた。 少し考えて思い至ったのは、自分はもしかしたら、他者の活躍の場を作ることに関心があるのではないか、と思った。 自分以外の誰かが、その人の持ち味を伸び伸びと発揮できるような場を用意して、そこで活き活きとしている姿を見たいのではないか。 上手にできるわけではないけれども、そうしたい、という意欲について、これに似た感覚は確かにこれまでもあった気がする。 それをこれまでは、ディレクター気

          他者の持ち味を発揮させられる場をつくれるようになりたいのです。