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いつまでも自分でいるという軽い絶望

頭を自動モードに切り替えて約1週間。
とあることに気づいた。

いろんなものが私のなかには、残らない。



私は案外、変化を求めて動き回る。
それによってそれなりの、人間関係が広がったり評価を得たりする。
そしてある日すっぱりと手を離す。

手を離す時は、もう二度とそれが手に取れなくてもいいとすら思う。


いちばん最近のものでいえば、仕事。
2年程つづけていた地元誌のコラムで、それなりに評判もよく毎回直接メールをくれるようなファンもついていた。

やりがいや喜びは、たしかにあった。

だけどそれとはべつに私のなかでは、もやもやとした違和感が育っていく。
もやもや、もやもやと。だんだんそれがつらくて仕方なくなる。

それをやる私、と「わたし」が遠くなっていく。そして手を離す。

手を離した時には、私のなかではすべて終わったことなので、なにも残っていない。
自分のなかにその仕事用につくられたアンテナは跡形もなく撤去されていて、ネタがあってもこころは踊らないのだ。
街中でその媒体を見つけても何かを感じたり(たとえば誇らしいとか、後ろ髪ひかれるとか)しないし、何も思わない。

もともと所属意識がない性格だからなのかもしれない。

そんなことは前からわかっていたことなんだけど、どうして今更「自分のなかになにも残らないこと」が衝撃となったのか。
そのきっかけは夫婦の何気ない会話だった。わたしたちはあと3年もすれば結婚10周年を迎える。

「結婚から10年、なんだかんだで大きく自分は変わっていると思う」
という夫。

私は自分のここまでを振り返る。
人間関係が広がったり、新たなこと(仕事でもアイデアでもなんでも)をいろいろやってきたけど、それで自分自身が大きく変わったとは思えない。


成長していないわけじゃない。
だけど、私は少し絶望的な気持ちになるくらい、わたしのままだ。


そして残念なことに、これからもそうだと思う。

すごーくすごーーく嫌なんだけど、どこまでいっても「わたし」であるということを目の当たりにして生きていく人生らしい。

自分が好きとか嫌いとかって意味じゃなくて。

いつまで経っても自分探ししているみたいで、恥ずかしすぎて嫌なのだ。

なにものかになれるビジョンなんてないのに、何かをするとき「何かになれるかもしれない」と期待する。
しっくりくる肩書だとか、職業を期待する。そこに執着したことなんてないくせに。


夫ともこの話をした。
「あなたはそうやって生きていくしかないから仕方ないよ」と、彼の日課である筋トレを行いながら言われた。

そうなんだろうなぁと思いつつ、そういってくれる人が夫でよかったなぁと思った。ほんとに。

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