ピープルフライドストーリー (41)思い出の先生達…(エッセイ)



…………………………第41回
(エッセイ)

     思い出の先生達…

            by 三毛乱

 中学の先生で印象深いのが何人かいる。
 そもそも小学六年生の時に、中学校訪問というのがあって、ゾロゾロと廊下を歩いていた時、丁度10分間の休み時間だったのか(あるいは、自習時間で先生がいなかったのか…)、ある教室の後方で数人の生徒がベーゴマをしてたのを廊下の窓越しから見えて驚いた。それもドラム缶だったかにゴム皮を張っている上での勝負をしていた。
 どことなくヤクザ社会の花札勝負のようなものを連想して、なんか中学校自体がヤバイ組織体であるかのように思って恐怖を感じたのだが、まあ、入学したらそんな事はなかった。
 姉が中学校を卒業するので、いろいろ情報を入手した。火星ちゃんとあだ名されている先生がいており、「火星ちゃん 蠅がすべるよ スケート場」とハゲ頭に親しみを持たれながら生徒から詠まれた先生がいるらしい、という情報を早速僕はインプットした。
 で、僕が中学1年の時まだいた。志村けん辺りがハゲ頭のカツラを被る時、耳の後ろだけ毛髪が繋がっているカツラがあるが、そんなふうなハゲ頭であった。眼鏡も掛けていた。火星ちゃんとあだ名されていた先生を僕なんかは少々侮っていたかも知れない。その背の高くない先生がある時怒った。僕らが授業が始まってもかなりワイワイガヤガヤとしていたからだと思う。上気したような顔の先生が大きな声で怒った。僕らは(少なくとも僕は)そんな大きな声で怒られた事が初めてであるかのように感じて大人しくなった。どんな言葉で怒られたか覚えてないが、キーンと響くような声でもあり、窓ガラスがビーンと鳴る程一気に教室の空気が張り詰めていた。僕は火星ちゃんと言われていても、55才程のこの先生をなめたらイカンと認識したのだった…。
 次は矢島というバスケットボール部の顧問もしていた先生も印象に残っている。教室でストーブがあり、休み時間だったかに、3~4人で紙を丸めてタバコを吸う真似をしていた。少なくとも僕はそうである。記憶ははっきりしないが誰かは本物のタバコを吸っていたかも知れない。ともかく、矢島の前で全員正座させられた。僕は真似ただけなのに…と思ったが、それを言う雰囲気ではなかった…。矢島がどう言ったか、これもまあ具体的には覚えていないが…、矢島は反省すれば今回は大目に見るという感じで言って、僕らは帰された。僕はなかなか良い先生じゃないかと思った。この矢島は背が高くて体もデカい50才程の(眼鏡は掛けていた…)先生で、放課後体育館で何回も上手くバスケットボールを遠くから、バスケットゴールへさすが顧問だけの事はある腕前で入れるスポーツマンらしい動きをしてたのが印象に残っている。あの先生ならどこの学校へ行ってもいい印象を残しそうなタイプに思えた…。
 次は英語担当のおじいちゃん先生。この先生はゴホゴホといつも咳持ちで、そんな咳をしながら英語の文を読むもんだから、頭に入ってこない。僕はちっとも楽しくないし、だいぶ生徒の英語嫌いを促進させたんじゃないかと思う。少なくとも僕は英語の勉強意欲はかなり下がったと思う。ゴホゴホ言ってない時でも、英語の発音は魅力あるものではなかった。う~ん60才以上、いや65才以上にも見えた…。
 次は中学3年の時の担任であり、数学を教えていた男の先生。名前は忘れたが、30才程で中肉中背の眼鏡を掛けた熱血タイプ。この先生は怒ると5人だろうが、10人だろうが教室の前方に横一列に並べさせて、端から生徒の頭の横と隣の頭の横を、西瓜2つを押さえて打ち合わせるようにガツン、ガツンと頭を打ち当て打ち鳴らし続けていくのである。恐怖のガッツンコの時間である。真ん中辺にいる人間はもし頭の右側の一点をガッツンコと痛めつけられたら、すぐに(間を置かず)左側の頭の一点がガッツンと痛められるのである。頭1個に痛み2つ。そして最後に頭1個に痛み1個の端と端の人間が呼ばれて歩かされて横に並ばされて、最終的な大きな破壊力のあるガッツンコ(ある生徒はガッチンコと言った…)が行われるのである。だから、前方に並べさせられる時はなるべく真ん中辺に行こうと狙っていくのだが、他の奴らも同じ思いだから、何度もはじかれて端っこに立たされ、最後の頭2つのガッツンコの目にあったのであった。時には悪さをしていた(どんな悪さだったのかよく覚えてない…)女子も並べさせられる時もある。そんな時は実に小さなコツンというガッツンコが女子の頭にはなされた。女子にはエコヒイキしてると皆思ったのだが、誰も口に出して言う者はなかった。
 20年ぶりの同窓会の時に先生も来ていたが、まだ若い感じがあった。僕らはあのガッツンコの事を恨んでいる訳ではない。幹事をしていた奴が、あの頃先生が教育に熱血だった事は分かっているから…みたいに、やんわりと言っていたが、先生はちょっと恥ずかしそうな顔をした。あれから他校に移動して行った先でも、あのガッツンコはやっていたのかどうか、今はちょっと訊いてみたかった気もするが、まあ、たぶん先生もいろいろ若気の至りで…あの行為をしてしまったと反省していると思いたい。今とは比べられない程の(いい意味でも、悪い意味でも)ルーズな時代だったのではあるが……。
 しかしまあ、こうして見ると中学の先生はなかなか個性的なのが多かった。高校の先生では、体育の先生数人が校庭を使ってゴルフの疑似ゲームみたいなのをしてるのを、授業中の僕が二度見、三度見した事とか、僕が40点のテストの答案の次に、今度は100点を獲った事に感心した数学の先生が自家用車で家まで送ってくれた(以前に書いた)ぐらいしか印象にない。
 さて、また中学に戻るが、次なる先生が一番印象に残っている。
 それは50才越え程のやや肩幅の広い美術の先生だった。
 この先生は近づくといつもウイスキーの匂いがぷんぷんとした。ウイスキーの平べったい壜をくすんだ山吹色みたいなジャケットの胸の内ポケットにいつも入れているという噂だった。いつでも匂いが抜けなかったから、いつもチビチビ飲んでたのかも知れない。だが、この先生は美術についての見識、審美眼のようなものは確かにあると思った。中学3年の時の担任も、同窓会の時に「あの美術の先生には、なるほど美術作品はこういう風に観るべきものなのかと教えられた」と言っていた。ともかく僕は美術の先生としては信頼していた。そして、学校の近くの畑で酔っぱらったまま寝込んでいた(それも家庭訪問の最中に…)、という噂を聞いても、さもありなんと微笑ましい感情さえ生徒も親達も共有していたように思う。(ちなみに、この先生がその後の文化祭だったかにこれまでの中での評価出来そうな生徒の提出作品を一挙に展示した折に、僕の描いた抽象画もあったと人から聞いて、「ヘえー」っと思った事があるのだが、だからと言って甘い評価をこの先生にしているのではない…)
 以上、夏目漱石の小説「坊っちゃん」に登場していても不思議ではない先生が何人かはいると思えるのだが、それらの先生との遭遇は、今となってはとても遠く懐かしい思い出である。

                終

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