いってらっしゃい

 自転車の鍵が見つからない。スマホの懐中電灯機能であたりを照らすが見当たらない。ある場所を照らしたらある場所が暗闇になる。確かこのポケットに入れたはずなのに。そう思って何度かコートのポケットを探るが、それらしいものすら見つからない。かかとの痛みが次第に自覚されるようになってきて、より一層、虚しさが意識されてつらい。通りを渡れば、駅が人工的に輝き、こちらを照らしている。もういっそのこと、電車で帰ろうか。ここから歩いて帰る気力はもうない。ドクドクと動く心臓ポンプがかかとに移ったかのように血がストッキングを侵食している感覚を得ながら、私は青信号がチカチカする横断歩道の前に立った。


 「おはよーうございます」「あー、ユミちゃん、サキちゃん、おはよう!気をつけてね」「うん、分かってるよ!」車が並ぶ車道と横断歩道の境目に立ち、毎日のように挨拶をしてくれていたあのお姉さんに憧れた。毎日、毎日、暑くても寒くても、いつもカッコいい帽子と制服を着て、私達が横断歩道を渡り終えるまで、見送ってくれていた。「今日はねー、サキちゃんが寝坊して、ちょっと遅くなるかもしれん。学校に着くの」「ちょっとだけじゃん」今考えれば、信号が青になるまでと数秒間の青信号の僅かな間に、よくこんなに話せたものだなと思う。「あらら。急いでいくのはいいけど、車に気をつけてね。ちゃんと右左の確認してから歩いてね。はい、いってらっしゃーい」このいってらっしゃいの声を背に受けて、私は六年間、事故ひとつなく、危ないことに巻き込まれることなく通うことが出来た。「おはよーうございます!」「あ、ユミちゃん、サキちゃん、おはよう!明日、卒業式だね。おめでとう」「うん、だから今日が最後かもしれん。ここ歩いて通るの。明日はお母さんの車で学校に行くから」「そうかー、それは寂しくなるねー」「でも、リオとかユウマとかがまだ通るから会えるでしょ」「ユウマはだって、まだ三年生だからね」「そうだね」「小学校は終わりだけど、別にどっかに行くわけじゃないから会えるよー」「中学校も気をつけてね。自転車で通うんだよね?」「うん、二人とも」「自転車は歩くよりもスピードが出るし、止まりにくいからゆっくり安全確認しながら事故がないように気をつけてね」「分かってるよ!」もうすでに青信号が点滅し始めていた。「じゃあねー、最後まで気をつけていってらっしゃい」私はいつものように手を振った。


 おしぼりで口を拭うたびに、無垢な爪が否が応でも目に入る。「ご出身はこちらですか?」「はい、そうですね」「ずっとこちらで?」「はい、地元が好きだったので」「そうなんですね」お互いに様子を見ながら当たり障りのないところから牙城を崩していく。「ご出身はどちらなんですか?」「僕は隣町です。大学で外に出たんですけど、結局こっちで就職することになって」「大学はどちらに出られてんですか?」「あ、大阪です。田舎が嫌で、とにかく都会に出たかったので、近場の都会みたいな感じで選びました」「そうなんですか」この手のやつは大体中身がない。目的とか、こうしたいみたいなのが明確でない人間性は人づきあいにも出る。とにかくその場しのぎというか、その時が良ければいいみたいな先を見据えないタイプだ。けれど、やたら女付き合いだけはいい。たぶん、こいつがSNSをやっていたら、写真の多くは女との飲み会の写真か、飲みサークル仲間との酔って記憶のない時に撮られたような写真しかないに違いない。たった少しのやりとりでこれだけのことを予測できてしまうほど、経験値だけが一人歩きしていることに情けなく思う。すでに氷が溶けてしまった三ツ矢サイダーを口に含んだ。何の味もしない。たとえ味があっても多分、分かりやしない。「そういえば、お仕事は何されてるんですか?事務かなんかですか?」「公務員です」「へえ、何とか課みたいなやつですか?」「そうですね」あ、はいはい。自分が優位にいることで自身を肯定するタイプね。「お仕事は何をされてるんですか?」別に聞きたくもないけど、そう聞いてもらうことに何よりもの快感を得るタイプね、あんたは。「まあ、IT系ですかね。ベンチャーなんですけど。一応、代表みたいな」「へえ、凄いですね。代表なんて」別に役職まで聞いてないけど。お前が何役だろうが知ったこっちゃない。「でも、公務員って安定していいっすよね。俺の学生時代の同期もかなりの数、公務員になりましたから」「どうなんですかねー?」早く終わらないか。着なれないワンピースのせいで足元が冷えてくる。公務員、といえば公務員だ。けれど、役所になんか勤めていない。「はーい、これから二次会行く人、こっち来てくれる?」幹事役をしていた鞠が上座で呼びかけている。「行かれますか?」「いや、私は明日、仕事が早いので」「そうですか。あ、そうだ」そういってスーツの中から名刺ケースを取り出した。革製の某有名ブランド名がはっきりと見えた。「一応、名刺お渡ししておきます。また機会あればよろしくお願いします」「あ、わざわざありがとうございます」私はそれを受け取ると、手に持ったまま、解散の合図を待った。「ユミ、二次会いい?」「うん、明日夜勤だから」「そっか。また連絡するわ。今日は人数合わせでありがとね。ごめんよ」「うん、じゃあね」「気をつけて」私は特定の誰かにではなく、空間に会釈すると、ヒールに足を入れた。かかとが上がった靴は前に転びそうになる。会計は鞠持ち。合コンの人数合わせで来てほしいというメールに何度も断りを入れたが、あまりにもしつこいのでお金は鞠持ちでということでしぶしぶ合意した。「ありがとうございました」レジにいた店員がこちらに声をかけた。私は軽く会釈すると、横に置いてあったゴミ箱につまむように持っていた名刺を捨てた。


 薄手の羽織ものでは身震いする。身体の先端部が深部の暖かさを保つために犠牲になっているかのように固い。寒いとか冷たいという感覚すら凌駕して、固形になったかのように思ってしまう。「ユミ、寒くないの?そんな冷たいもの飲んで」スターバックスの新作が出たからとスタバマニアの鞠の誘いで久しぶりにスターバックスにやってきた。「うん。何となく冷たい方がおいしそうだなと思ったから」鞠は新作のホットを、私は新作のフラペチーノを注文した。「久しぶりに飲むんだけど、スタバのフラぺ」「ベリー系だから美味しいと思うよ」鞠とは高校時代の付き合いだ。「お待たせしました、こちらになります」軽く茶色に染められた髪色の店員がマリーゴールドのようなはっきりとした笑顔でこちらに飲み物を手渡してきた。「ありがとうございます」「ここでいい?」「うん」私達は窓際の二人席に腰を下ろした。「カップの柄も可愛いー」そう言ってスマートフォンで写真を撮りだす。「いただくよ」「うん。このまま飲んだら熱いから少し冷ましてる」そう言いながら、カメラの写りを確認していた。私はストローを差し込んで、吸った。「うん、美味しい」「やっぱり?ちょっと酸っぱい感じ?」「うーん、酸っぱさはクリームで緩和されてるかも。でもしっかりベリーだよ」砕かれた氷の粒が心地よく咀嚼できる。「そろそろ、私もいただきまーす。うん、美味しい。うんうん」そろそろと唇にカップをつける鞠の指先にはペンで何かが書かれた跡がついていた。「指先、なんかついてる」「ん?どこ?」「右の人差し指」「あ。ほんとだ。昨日のやつだ。昨日、子供と絵の具で絵を描いてたからそれでついたんだ。落ちないかな、これは」鞠は高校生の時から保育士になりたいと言って、今はその夢を叶え、保育士として働いている。「仕事は忙しい?」「うー、まあこんなもんじゃない?忙しいっちゃ忙しいかな。あと時期による。やっぱり運動会とかお遊戯会の前とかはバタバタする。でもあれよ、意思疎通ができるってやっぱり楽だなと思うよ」「どういうこと?」「去年まで一歳児クラスだったから言葉なんて通じないわけよ。表情とか、動きとかで察するしかないからそのへんではいい勉強になったけど、四歳児クラス持つと、やっぱり言葉で伝えてくれるからこっちも正しく理解できるなと改めて思った。でも、三年でこれだけ成長するんだなーと思うと考え深いよ。すごいな、子供ってって毎日、思うもん」「へえー、三、四年でと思うと確かにすごいね」「ねー、私らの三、四年と子供の三、四年なんて密度が全く違うなと思うもん。毎日」蓋を開けたままのカップから出る湯気が徐々に少なくなっている。「ユミはどう?最近は。何かこの間の保育園に注意喚起情報が届いてたけど」「あ、そうそう。痴漢みたいなのが今、増えてて。他県でも増えてるでしょ?小学生くらいの子が誘拐される事件。国からも見回り強化するように言われてるし。だからねー、こっちも気が気じゃなくて。常に緊張してる感じもあるかもね」「やっぱりそうなんだ。園でも夕方には園内の庭でも外遊びは止めるように指導してる。子供にはやっぱり可哀相だけど、出来るだけ可能性は減らしたいからね」「うん、物騒な世の中になっちゃったなと思って。自分以外の人のことが想像できない人が増えたというか。まあ、でも話聞いてるとそうならざる得ないところもあるのかなって同情しそうにもなるよ、正直」「ああ、その加害者側の事情がってこと?」「うん、精神鑑定とかしたら病気だったっていう人もいるし、あとは何だろな。親から虐待受けて育ってたから、それが当たり前でとかね。痴漢もだけど、ハラスメント系も増えてて。今、児童虐待とか家庭内暴力とかって、近所の人がそれっぽいってなったら警察とか児相とかに通報するのが義務になりつつあるんだよね。だからちょっとしたことでも通報が入ったり、相談されたりとかもあるから、そういう事件に触れる機会が増えたのは事実。こっちはもちろん警察として加害者側に同情することはあってはいけないんだけど、心はあるからね。それを抑えながらやってると、やっぱりそれなりにストレスは溜まるよ」話をしている間に、クリームも氷も分からなくなってきていた。「で、その肌荒れってことね」「夜勤だったのもある」「ユミが冷たいもの頼んだ時、ああ、そうとうきてるなと思った。なんかテレビでやってたよ、心身の疲れがピークになると冷たいものとか甘いものを欲するようになるって」「模範解答じゃん、私。この間の合コンもその一つだけど」「はい、本当にごめんなさい。あのメンツは最悪だった。数合わせとはいえ、本当に申し訳なかった」「鞠のところもやっぱり良くなかった?」「うーん、まあ平均値とったら平均以下。あの日は仕事の疲れもあってちゃんとした判断が出来てなかったかもしれないけど、まあ、もうこの歳になると仕事とるか女の幸せ取るかの瀬戸際に立たされる感じがしてもう現実なんか見てられない」「てか、女の幸せって何よって感じがしてくる。仕事してたらダメっすか」「ユミ、それ仕事を公務員って言い始めてた時に言ってたよ、同じこと。警察官っていうと、ひかれるからって」「職業なんてたかが肩書でしかないのにね。そういう人にしか出会ってないのかもしれん。だってこないだのやつ、お仕事は何ですか?事務かなんかですか?って、女はみんな事務なんか?お前の脳内ではってツッコミたくなった」「マジかー、いつの時代生きてんの?なんかそこまでだと心配になってくるよね。そんな価値観を持った人間がこの世に浮遊してることが」「だから合コンとか来てんだよ、モテるけど捨てられるってやつじゃない?」「だろうね。もうあの界隈のやつらの誘いは断ろ」隣にはパステルカラーのカーディガンを羽織り、ハーフアップにまとめられた長髪が艶めく女性が、Macを前に資料を眺めている。爪はネイルが施され、横顔も端正だった。夢見る夢を間違えたのかもしれない。そう思わざる得ない現実を突きつけられたとき、それまでの私が無くなりそうになる。私は小学生の頃に「いってらっしゃい」と毎日、声をかけてくれたあの女性警官に憧れた。その思いは変わらず、高校卒業して警察学校に入校した。周りは男性ばかり。親からも「女の子が警察官になるの?」「そういう系なら、公務員とかで交通課みたいなの?知らんけど、そんな課に入ったらダメなの?」と女の子だからという理由で、ありとあらゆる批判を受けた。けれど、ずっと習っていた剣道での負けず嫌いが染みついているのか、全てを跳ね除けて努力してきた。無事、警察官として派出所に勤務になったときは今までの鬱憤を晴らすかのように仕事に打ち込んだ。男性よりも劣りたくない。女性だからという理由でできない仕事を増やしたくない。努力は裏切らない。剣道を通じて学んだ心得。そのおかげか分からないが、去年から県警の方に配属を回された。けれど、ここ最近、それではどうにもならないことがこの世の中には存在していることが次第に分かり始めていた。世論、イメージ、肩書。自分が変われば他人が変わる。そんなものは嘘っぱちだ。どれだけ私が女性警官の良さを伝えても、どれだけ交通安全教室に出向いても、警察官である女性は恋愛対象にはならない。強そう、怖そう、厳しそう。そんな「たぶん、そう」が染み込んだヴェールをかぶせられた世界では真実が真実でなくなる。イメージや世論は個人の人間が集まって集合体になったときに創り出されるものであるはずだ。けれど、その度が過ぎると集合体にしか目が向けられなくなり個人は消滅する。個人の上に社会があるはずなのに、社会の上に個人があるような感覚に陥る。「誰かが作ったイメージで個人が苦しむって大人になってから知ったよね・・・。なんかさ、警察官になりたいって思ったそのこと自体を恨みそうになるよ。そりゃ、分かってるつもりだよ。別に結婚とか出産がすべてではないことくらい。でも、実際問題、同じ女性警察官でも結婚して子育てしてる人とか見ると、結局は個人的なことだよなと思い知らされるよね」「うーん、確かにね。でも、人間だけなわけじゃん。オス、メスっていう生物学的な性と女性、男性っていう社会的な性を持って生きてる生き物って。でも、なんでそれってあるんだろうね。習うわけじゃないじゃん。男の子は寒色系、女の子は暖色系みたいなイメージとか、男の子はズボン、女の子はスカートみたいな考え方って。そういうのがどこから生まれてくるんだろうなと思う。保育園でもそうだよ。0歳、1歳なんて男女の差なんか顔だけ見たって分かんないよ。でも、洋服とか、持ち物とか見て分かるわけでしょ。でも、その判断基準ってそもそも正しいのかなとか思わない?寒色系で、車とか飛行機のマークがついた服着てたら男の子かなと思って、暖色系で、ハートとかニコちゃんマークがついた服着てたら女の子かなって思うのかな、私ら」「んー何でだろう。大人に促されるのかな、そういうのって。着せられてる服見て、あ、こういう服なら男で、こういう服なら女なんだって自然に学んでいくんじゃない?私らもそうだったのかな・・・?」「分からん、あーなんか考えすぎると泥沼にはまりそう。考えたって、ダメなもんはダメだよ。そんなこと考えずにのうのうと生きてる人がきっと幸せになってくんだよ。神様は不公平だね・・・」気が付くと、空になったカップの中でストローを回していた。いつ口をつけたのかも、いつ飲み終えたのかも覚えていなかった。どんな味だったっけ。甘かったよな。すっぱかったよな。確か。「あ、ごめん、そろそろ姪っ子迎えに行かなきゃだ。今日、親も旅行、妹の旦那も妹も運悪く出張が重なったらしくて、うちが看ることになってんのよ」「忙しいねー」「ねー。妹も『マジでごめんって』まあ、可愛いからいいけどね」「さすが、保育士」「いや、仕事とは全然、緊張感が違うから。他人の子預かるって、めちゃくちゃ責任重いからね。まだ、気が楽よ」私たちは何時間居座ったか分からない席を立った。ずっと座っていたせいで一瞬、立ち眩みしそうになる。「明日は?仕事?」「うん、夜勤」「うわっ、しんど」「慣れたよ。何もないことを祈るだけですね」食い意地の悪さが余裕のなさを表すのだろうか。捨てようとしていたカップの底にはクリームが一つもなかった。


 「お疲れ様っす。これ、統計資料です。やっぱりこうして数にしてみるとハラスメントの事件が増えてるなと思いますね」「お疲れー。ありがとう。そうだよね・・・」「結構、予防対策とかもやってんすけどね。意味があるのかなとか思いますよね」「うん」就職してから今日まで、夜勤中に大きな事件が起こったことは幸いにもない。夜勤は人手が少ないため、できることなら私たちが暇を持て余すくらいの方がいい。「帰りました」「お疲れ様です」「お疲れ様です」「記録、書いといてもらっていい?異常なしで」「分かりました!」警察官歴一年の新人、才元が記録帳に手を伸ばす。「あ、田尾山さん、さっき山下さんが帰り際にみんなでって置いていってくれたお土産が給湯室にあります。伝えておいてと言われたので」「お、さんきゅー。新婚旅行かー。ハワイって言ってたっけ?」「そうみたいです」「いいすっねーハワイ。俺も行ってみたいっす。あ、先輩、記録の印鑑、お願いします」「了解、そこ置いといて。才元はこれから行けるだろーハワイ」「いやー、どうすっかねー。まだなんか仕事仕事って感じで。でも、同級生で結婚してる人とかいますからね。マジで!と思います、正直」「とりあえず、才元はこの記録の書き方を覚えることからだな。これ、ここじゃなくて次のページに書けって」「あ、すいません!直します!」才元はペンを持って、田尾山さんの席に近づいた。「ここ、これだと先月のにカウントされるぞ」「あ、はい。気をつけます」「うん。で、土産は何だった?」「あ、クッキーみたいです。食べられますか?」「んーそうだな。いただこうかな」「あ、じゃあ、俺もほしいです」「先に俺らでいいやつ取っちまうか」「いいですねー。じゃあ、私、持ってきます」「よろしくー」「ありがとうございます!」私は給湯室に行き、クッキーの箱を持つ。中にはハワイによく見られるヤシの木が模られたクッキーが並べられていた。「どうぞ。先に一つ頂きました」「サンキュー」「ありがとうございます。すいません」二人は同時に1つずつクッキーを取った。「あ、そういえば、そろそろクリスマスですね。お子さんのプレゼントとか買われたんですか?」「ああー、なんかもうその辺は嫁さんが全部やってくれてる。もう歳も歳だしな。高校と大学だから。俺はその代金を支払うだけ。知らん間にカードから引き落とされてる」「なんか、切ないといえば切ない感じがしますね」「まあ、でも男ってそんなもんじゃない?息子はもう家、出てるし。娘と嫁が絶対的権力を保持してるよ、うちでは」「やっぱりそんなもんなんすかね・・・」気が付くと各々の席に戻り、パソコン越しに会話がなされていた。新人の才元は先輩に可愛がられるタイプというか、人の懐に入るのがうまい。仕事こそ、覚えは緩やかだが、いざとなればどこにそんな力を秘めていたのだ?と疑いたくなるほど、力を発揮する。その力をどうか仕事を覚えることに分けていただきたいのだけれど。ベテランの田尾山さんはこの部署ナンバー1の位置にいるベテラン警察官だ。数々のケースの問題に関わり、とにかく動きがとても速い。そして、的確だ。これ、これと指示を素早く出し、誰よりも早く現場に向かう。素早く準備をしないと置いていかれるくらいだ。しかし、普段はふつうのおじさんといったら失礼だが、後輩でも関わりやすい雰囲気を作り出してくれるいい先輩だ。「そういえば、統計どうなった?才元に任せてたのを、領野にって聞いたけど」「あ、さっき受け取ったので最終確認してます」「あ、ほんと。やっぱり統計的に見ても来年度の課題は間違いなくハラスメント対策だよな。この間の課の会議でも出てた、議題に」「そうですね」私は才元からもらった統計資料を手に取り、コーヒーを入れたマグカップに口をつけたその時だった。「プルプルーーーー」緊急命令を知らせる電話がなった。その場の空気が一気に引き締まった。「才元、メモ」「はい」私は電話に出た。「スピーカーに!」田尾山さんの声に私はスピーカーボタンを押す。「十一時過ぎ、城山住宅、118 罵声や何かが倒れるような音がしたと近所の住人から通報あり 今、城山派出所の警察官が初動 以上」「城山か・・・」近くにいた田尾山さんが何か思い当たることがあるかのように今までの通報歴を調べ始めた。「了解 動きがあり次第、連絡願います」「了解」私は受話器を直した。「準備しときます」「うん」才元はアウターを羽織り、いつでも出れるよう準備を始めた。「たぶん、この件、初めてじゃないぞ、通報」「城山・・・あ、なんか私も覚えがあります。118・・・」「前にも近所の住人から通報みたいなのがあったような…あ、やっぱりそうだ。これ」私と才元がパソコンを覗き込む。そこには記録で「夫婦が言い争う声が聞こえ、近くの住人が通報 城山派出所から出動 注意勧告と情報収集を行う」と記録されていた。「この時は時間的にもう少し、早い時間だったみたいだな」「プルプルーーー」私が手を置いていた電話機が鳴った。スピーカーボタンを押す。「城山の件 今男性が癇癪を起しているもよう 女性がおり 妊婦である 救急要請済み 援助を要請します」「了解」「救急を要請しているってことは身体的な外傷危機ありってことだな」「はい」「才元、ここにいて指示を聞いて伝えてくれるか。領野、出るぞ」いつもなら深夜の出動は男性二人が出動し、私はここに残って情報伝達や状況整理を行う。「あ、はい、分かりました」才元も声こそ落ち着いているように見えたが、顔は驚きを隠せずにいた。「癇癪・・・男、城山・・・領野は出動準備、才元は引き出しから毛布出して」私は急いで椅子に掛けていた上着を羽織る。「毛布です」「うん」私がそれを受け取るころにはすでにもう田尾山さんはいなくなっていた。ガラスドア越しに階段を駆け下りかけている田尾山さんが見えた。私は急いでドアを開け、スタートダッシュを切った。


 野次馬がいるかと思っていたが、深夜だったせいか、運良くほとんど見受けられなかった。「城山は救急病院から距離があるから俺らが現場に先につくと思う。領野は女性の方を頼む。派出所の人間に女性はいない。周りの人間も近づきたくても身の危険を感じて近づけないだろうし、二次被害を防ぐためにも近づかないように指示を出してるだろう。あと、城山の住宅街は道が狭い。きゅうきゅ・・・」才元から伝達が入った。「はい、領野」「才元 救急は現場から離れた大通りに止める予定 一方通行により付近での停車は難しいとの理由 大通りはバス停城山公園前に停車予定 そこから救急隊が向かうとのこと 道はマップに記す 以上」「バス停城山公園前 了解」「できるだけ、現場から被害者を遠ざけるように頼む」「はい」現場に着くと、すでに派出所の警察官たちが男を抑えようとしていた。「落ち着け!」「俺は悪くない!」「落ち着け、はい、分かった分かった」もう何十年もこの仕事をしている田尾山さんでも抑えるのに手こずっていた。
私は女性を探した。街灯がないせいでなかなか見つからない。あっ、少し行った先に、うずくまる女性がいた。「もう大丈夫ですよ」彼女からの返答はない。そのうえ彼女にだけ電磁波が通っているのではないかと思うくらい、震えがとにかく止まらなかった。「歩けますか?向こうに救急車が来ます。ここにいては危ないので、少し移動できますか?」私の声が耳に入らないくらい恐怖に苛まれている様子がうかがえた。私は手に持っていた毛布を思い出す。あまりにも持ち過ぎて存在すら忘れかけていた。「これ、寒いので」私は彼女の方に毛布をかけた。背中側からは警察官と男のやり取りが耳に刺さるように聞こえる。まだ落ち着かないようだ。「すみません、すみません」「あ、大丈夫ですか?」私はもう今にも溶けてしまいそうな声を聞きとろうと女性により近づく。「すみません、あの赤ちゃんが」「うん、もう大丈夫です。ちょっと歩けますか?」温かさは人を安心させる。毬が言っていたことをなぜかその時、ふっと思い出された。私は上に着ていた上着を脱いで、毛布の上からかけた。触れた指先の冷たさが女性の精神状態を表しているようだった。「はい、はい」女性は砕けたかのような足に最後の力を込め、立ち上がる。「かがんだままでいいですよ。しんどくないですか?」「はい、すみません」私はお腹の中のことも気になったが、とにかく現場から距離を取ろうと促した。暗闇の中にあるアスファルトなど、あってないようなものだ。感触だけで歩を進める恐怖は私にでも分かる。「警察さん、警察さん」数メートル歩いただろうか。大通りの一つ前の曲がり角から声が聞こえた。「はい」そこには心配して様子を見に来ていたのだろうか、女性が二人立っていた。「近づくと危ないって言われたからここにいたんだけど、これ寒いから毛布、使って。ね、赤ちゃんもいるから、寒いのはいけんから」「あ、いいんですか?」「うん、ごめんね、すぐ近づけんで」女性は「すみません」と何度も言っていた。「ちょっとお借りします」私はそう女性二人に伝えると、毛布が落ちないように支え直した。「今、救急が来ます。ここで待ちましょう」「うん、それがいい」女性二人もそういうと、周囲の状況を確認してくれていた。時間というものを意識したとたん、時間の流れが遅く感じるのは緊迫した状況下であればより顕著だ。早く、早く。そう願っても一秒や一分が早くなることはない。なんて無力なのだと落胆する。どんなに願っても変わらないものはある。変わらず、幾度となく悲惨なことが起き続ける。誰もそれを願わぬはずなのに。誰が、いつその悲惨さを肯定し、起こし続けるのだろうか。分かりあうことが出来ない人間がこの世には確かに存在している。「あの・・・」「え?」「歩いていけます」「担架が来ますよ」「いや、あ、すみません」「ピーピー」「はい、領野」「田尾山 男を確保 派出所のパトカーで送った そのまま現場検証を行う そちらは 以上」「はい、こちら今から担架に乗せます 救急隊員が来ます 以上」「その救急隊員の性別は?」「えっ?男性です」「領野に女性を任せた理由を考えろ 以上」「捕まった 大丈夫?」さっきまで曲がり角にいた女性たちがこちらに近寄ってきた。「はい 今、パトカーで署の方に送りましたのでもう大丈夫ですよ」そう言いながら私は田尾山さんからの言葉をずっと反芻していた。私に女性を任せた理由・・・。「ピーピー」「はい」「救急 到着 向かいます 以上」男性の低い声がトランシーバーから聞こえたその時、ガタッ。手の平に静電気のような刺激がはしった。いや、静電気なんかよりも大きな雷鳴が鳴り響いたようだった。私がずっと支えていたその身体が震えた。表情はうかがえないが、底なし沼と分かっている泥沼に自ら身を投じるかのような雰囲気がより助長されたような感覚があった。すべてを悟り、憎悪を抱くことすらも許されない諦め。まるでレ・ミゼラブルのフォンテーヌのようだ。しかし、あれは作り話。現実にフォンテーヌのような人を生み出さないのが私の仕事だ。できることはなんだ・・・。「領野に女性を任せた理由を考えろ」あっ。私はトランシーバーを口元に近づけた。


 冷え切ったコーヒーに口をつけた。温めなおしても良かったが、給湯室に行く気力はもうほとんど残っていないほど、疲労感が蓄積していた。苦みも酸味もまるで分らない。才元も訓練でこそ緊急対応については行っていたが、実際に行うとなるとかなり緊張の糸が張りつめていたのだろう。机の上が散乱したままになっている。「あぁー間に合うかー引き渡し」才元の大きなひとりごとが聞こえる。「なんか飲む?」「あ、すいません、心の声が。そんな、俺が何か買ってきますよ」「あー、いいよいいよ。先、それ書かないと早番が困るし、才元も気がかりになって家に帰っても休めないと思うよ」「はい。頑張ります」私はもう一度、コーヒーに口をつけた。現在、朝六時。女性を病院まで送り、女性診療科で対応してもらえるよう伝えた。そのまま現場に戻り、現場検証を行った。田尾山さんは派出所のパトカーに乗り、被疑者ともに県警に先に戻り、今も階下で事情聴取をしているはずだ。「おーう、お疲れー」「あ、お疲れ様です」「お疲れ様です。どうですか?」「んーまあ、興奮冷めやらぬだな。ありゃ。はあー久しぶりに緊迫したぞ。ほい、これ」田尾山さんの手にはコンビニの袋があり、中から菓子パンやおにぎり、野菜ジュースなどがゴロゴロと出てきた。「好きなのあったら食べて。あ、このクリームのやつと野菜ジュースと、このコロッケは俺の」健康に気を使っているのかいないのか分からない組み合わせだ。「いいんですか?じゃあ、お言葉に甘えて・・・」この時に遠慮の二文字がないのが才元のいいところだ。「あ、すみません。領野さん、先に選んでください」「あんたがいう言葉じゃないでしょ」「あ、そうっすよね。すみません」「田尾山さん、いただきます。ありがとうございます」私は目の前に転がってきた昨日発売のいちごクリームメロンパンを取った。「飲むもんはいいか?」「はい、コーヒーがあるので」「才元、あと全部いいぞ。これとか」「ほんとですか!いや、これいつも高くて買えないんで嬉しいです。このパン」「俺の息子もこないだ帰省した時、同じこと言ってた」「いや、ほんとに高いんですよ、これ。すいません、いただきます」私もパッケージを開けた。昨日発売で食べたいと思っていたやつだ。ほんのりピンクづいた香りが甘い。食べなくてももう甘い味がする。「この後はどうなりそうですか?」才元が田尾山さんに尋ねる。「んー、今、違うやつが事情聴取してるからそれの結果次第だろうけど、精神鑑定が入りそうだな」「やっぱりそうですよね」「あと、被害者がまだ病院で状況が把握しきれてないから、それの回復次第ってのもある」出動も早ければ、食べるのも早い田尾山さんはもうすでに次の仕事に向けての準備を始めていた。「あ、そうだ。領野。これ病院から」「はい」「あと、事情聴取の部屋にいる木本が来て欲しいって」「分かりました」「悪いけど、六時半くらいにはって言ってたからそれくらいまでに頼むわ」「あ、了解です」腕時計は六時十五分。「先に行ってきます」「うん、よろしく。あと、才元はこれ…」私は一口かじったメロンパンをパッケージに戻した。戻ってからゆっくり食べる方が賢明だ。「出ます」「お願いします!」外は行燈のようなぼんやりとした明かりが支配していた。今日も寒い。階段を降りながら、私は渡された病院からの報告書の封を切った。「ん?」定型の文書とは別にポストイットでメモが書かれていた。「救急のものではない毛布がかなり厚手で、凍傷にまで至っていませんでした。そのため、身体症状の負担が最低限で済み、胎児への影響もほとんどありませんでした。すぐに心理的な治療に入ることが出来そうです。ありがとうございました。救急 内井」私は踊り場で胸をなでおろした。そして、田尾山さんにはもう頭が上がらないと感じた。経験だけでここまで見通しを立てて瞬時に指示を出すことはできない。それに比べて、私の行動はどうだっただろうか。救急隊員が来ているにも関わらず、私の独断で被害者を救急車まで歩かせた。足に歩くために筋力などないことはもう分かっていた。砕けた骨の破片だけで作られたような足で歩いてもらい、あの二人の女性に手伝ってもらい、救急車に乗せた。多分、注意を受けるだろう。木本さんならどいう判断を下すだろうか。杞憂で済むだろうか。いや、済まない気がする。待て。そんな私情をはさんでいる場合ではない。私はすぐに報告書に目を通し始めた。
 被疑者確保からほぼ半日。状態は変わっていない。対策本部がすでに置かれ、マスコミの対応等にも備え、卓上は資料であふれていた。警察官になって八年。ドラマで見ていた光景が今、目の前に広がっていた。「お疲れ様です。領野です」「おお、お疲れ。ちょっといろいろ聞きたくて、田尾山さんに伝達してもらった。まず、病院からの読んだか?」「はい。目は通しました」「毛布、良かったそうだ」「あれは田尾山さんの判断です」「そうなんだ。やっぱり凄いな、田尾山さん」「はい」「了解。状態についてはその報告書通りだが、それまでの状況を頼む」「はい」私はその時の状況を報告した。近くに座っていた刑事たちが一斉にメモを取り始める。「以上です」「今回の件については領野にもチームに加わってもらう。よろしく」「はい」「じゃあ、それぞれの持ち場に」「はい!」それを合図に刑事たちがそれぞれの立ち位置に散らばった。「ということなんで、よろしく。非番だけど、いけるか?」「はい、大丈夫です」「あと、救急車の件だけど」あ、やっぱり来たか。「田尾山さんの部下だなと思ったよ。誰のための仕事かを常に念頭に置いている感じが。ただ、情報伝達が遅い。チームで動いていることは常に意識をしておいて。情報伝達は忘れるな」「はい、すみません」「ただ、いい判断だったと思う。男には出来ない。同性だからできることもある。同性だから分かることもある。男性だけで警察組織が成り立たないのはそこだ思う。田尾山さんもそれを分かっておられたんだと思う」「はい」「とりあえず、病院からの報告書の通り、今日の正午ごろから動き出す。それまでに休んでおいて。多分、今日はエンドレスだと思う」「分かりました。ありがとうございます」「うい」私は礼をして、その場を後にした。私はいってらっしゃいの声に憧れて、警察官という職業を夢見た。けれど、現実はそう夢のように甘くはない。「女だから」私はその言葉にずっと苦しめられていた。この仕事に就く前も、就いてからも。けれど、自らの不幸を「女だから」という理由で肯定しようとしていたのは、不幸を見せびらかして、かわいそうな私を演じていたのもすべて私だった。「女だから」そんなヴェールを覆って、自分の現状に目をつむっていたのは紛れもなく私だ。どんなに私が仕事をしても、きっと世間の目が簡単に変わることはない。染みついた先入観をぬぐい取ることは並み大抵のことではない。だからといって、それは私が自身を否定する理由になるだろうか。自身の鼓舞しない理由になるだろうか。私は女性に生まれて良かった。女性としてこの職業に就くことができて幸運だった。どうして人間にだけジェンダーという概念が存在しているのか。私は鞠と話した時から疑問だった。私が一つ言えることは、そこに必要性があるからだ。その概念に救われる人がいるからだ。けれど、無意識のうちは私たちは白黒がはっきりとした型にはめたがる。男のくせに、女のくせに。何処かにそんな思いがきっと潜む。私はそう抱くことを否定はしない。感じたことに間違いはない。それが全てだ。だからこそ、私たちがすべきことは、それを自覚し続けること。そんな感情を抱いたことを無かったことにしないことだろう。それにはかなりの想像力が必要だ。田尾山さんが毛布を持っていけと言った理由も、私に被害者の確保を任せたのも、すべては想像力の豊富さがなしえたものだ。誰のために、何のために男女の警察官が存在しているのか。それを求める人がいるからだろう。それが私の仕事だ。

「お疲れー。ニュース見たよ」「あ、お疲れ様です。矢前さん」私が部屋に帰るとすでに早番のメンバーが来ていた。「どうだった?向こうに加わる?」「そうなりそうです」「了解。これ、引き継いどくよ」「あ、すいません。お願いします」「あと、今日の朝の交通安全、才元が行ったぞ」「あっ。忘れてた。でも、彼、今日非番ですよ」「非番前に一仕事して、家で寝るって。領野が皆勤賞じゃなくなるの気にしてたけど」「ああー」「でも、もうこれから当分、仕事だろ?本部なら」「はい、今日の正午から」「休んどけ。本部ならかなり動くから」「じゃあ、お言葉に甘えて」才元にはやはり有り余る体力がまだあったらしい。「あ、お疲れ様です!」「あー、おはよう」「おはようございます。昨日、大変だったみたいですね」「これからが勝負だよ」「あ、そうですね・・・」今年から入ってきた新人の植山だ。時計を見る。八時前。四時間睡眠か。いや、その前に一回、化粧落とさないと。シャワー室に行こう。三時間睡眠コースだな。肌にわるっ。「田尾山さんは?」「睡眠中。ほら」指さされた方には席に座って、寝ている田尾山さんが見えた。「鬼のような速さでシャワー浴びて、一時間前からあの状態」リアルな熊の目をモチーフにしたアイマスクをして熟睡していた。息子が誕生日プレゼントにとバイト代で買ってくれたといって喜んでいたものだ。初めてつけた時は私たち部下の爆笑をくらっていたが、誰もが次第に慣れて、今ではああ、田尾山さんだとすっかり馴染んでしまっている。「植山、今、手が空いてる?」「はい」「雑用で申し訳ないけど、給湯室でコーヒー沸かしといてくれる?」「もちろんです」「ありがとう」「じゃあ、少し休ませてもらいます」「おう、いってらっしゃい」私はロッカー室に向かった。あのメロンパン、もう固くなってしまったかな。




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