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No.97 2012年~2020年 社会科専科の授業 6年歴史「魏志倭人伝」を使い邪馬台国論争について考える

 2012年の7月に弾丸的なフィールドワークを試みました(エッセーNo.60を参照して下さい)。
1日目 羽田空港―福岡空港―佐賀県吉野ヶ里遺跡―福岡県板付(いたづ
け)遺跡―福岡県博多湾岸元寇防塁遺跡―博多宿泊
2日目 博多―大分県中津―山口県門司港駅―福岡県大宰府天満宮―福岡県九州国立博物館―福岡空港―羽田空港
 メインは佐賀県吉野ヶ里遺跡のフィールドワークでした。この時吉野ヶ里遺跡の書物を購入しましたが、その書物を入れて下さった封筒に関心が向きました。表に「魏志倭人伝」の一部の文章が漢文で書かれ、裏に「魏志倭人伝の読み下し文」が記入されていたのです。2012年の6年生はすでに古代史は終わっていましたので、2013年の6年生から吉野ヶ里遺跡での写真と「魏志倭人伝」、卑弥呼に関する新聞記事を使い、邪馬台国論争について考える授業を展開することにしました。
 この授業は弥生時代の代表的な遺跡「吉野ヶ里遺跡」と関連付けて行ってきました。
 まず、私が撮影した「吉野ヶ里遺跡」の写真を提示します。


 学校で使用している資料集、その他の資料も使い「吉野ヶ里遺跡」について学んだあとに、「魏志倭人伝」の一部をB4版に印刷しひとりひとりに配布します。

 私は封筒の裏に書いてあった「魏志倭人伝の読み下し文」小さくコピーし、それを隠すようにして教卓に置き、ゆっくり読み進めていきました。もちろん、読み下し文でも難しい言葉があるので、それを説明しながら読み終わります。

 私が「読み下し文」を読んでいることに気が付かなければ、「先生は、この魏志倭人伝の文を読めるのですか?」と子どもたちは疑問に思います。最後には「読み下し文」の存在を明かしていました。
 
 それでは「この邪馬台国はどこにあったのだろうか」と歴史上解決されていない論争について考えていくのです。
 この「吉野ヶ里遺跡」がある北九州説と奈良がある畿内説があることを説明し、畿内説の根拠になっているかもしれない新聞記事を提示し読み進めます。
 奈良県桜井市の「箸墓(はしはか)古墳」と「纏向(まきむく)遺跡」に関する記事2つをB4版に印刷しひとりひとりに配布します。

「朝日新聞」2009年5月29日朝刊より
「朝日新聞」2010年9月18日朝刊より

 記事から分かることをまとめていきます。細かいことの理解はここでは必要ありません。歴史上の出来事にはまだまだ不明なことがたくさんあることの理解でいいのです。「箸墓古墳」について「宮内庁指定の陵墓で本体調査ができない」ことの意味についても考えました。「邪馬台国論争」というものがあり、長い間解決されていないことを学ぶことに価値があるのです。
 
私たちが子どもの頃習ったことが現在では違っていることもあります。
 例えば
 仁徳天皇陵→大仙古墳、大山古墳など
 大和朝廷→ヤマト(政権)、大和王権など
 聖徳太子→厩戸王など
 日本で初めて鋳造された貨幣 和同開珎→富本銭
 鎌倉幕府の始まり 1192年→諸説あり 1185年が有力か?
 モンゴル軍の撤退 2度の暴風雨→1度目は諸説あり
 江戸幕府の直轄領 天領→幕領、幕府領
 士農工商→士(武士)以外に上下の順位はなかった
 鎖国していた→鎖国政策をとっていたが、海外との交流もあった
 踏み絵→絵踏
 などがあります。歴上のできごとを絶対的なこととして捉えないことを学ばせたいです。
 
参考
邪馬台国どこにあったの
小学館 Hugkum
https://hugkum.sho.jp/180532

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