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短編 | misty taste of moonshine


「マナちゃん」

考えるより先に、振り返った。

月明かりより街灯が強い夜道。夕暮れから夜に入っていく時間。
ここは故郷からずっと遠くの住宅街の中で、こんなところにいるはずがないのに。

少し離れたところに、家族連れが見えた。
自分より少し年上に見える女性と、旦那さんであろう優しそうな男性。
可愛らしい5歳位の女の子と、男性に抱っこされた赤ちゃんの四人家族。

ああ、なんだ。きっとあのお母さんが呼んだんだ。

5歳のマナちゃんがお母さんと手を繋ごうとしているところを横目に見て、踵を返した。

今日は日曜日だった。
ここ3週間くらい、なんだかすごく忙しくて。
去年のこの時期は、仕事、ここまで忙しくなかったはずなんだけどな。
色んなことが重なった結果により、毎日バタバタと時間を惜しむように働いて、夢中で怒涛の3週間を終えたところだ。
久しぶりにのんびり休日を楽しむ余裕ができて、昨日の土曜日は家でたっぷり眠り、今日は映画を見た帰り道。リフレッシュしたなーなんて思っていた。


『マナちゃん』
そう呼んでくれる人のことを久しぶりに思い出した。友人や恋人には、「マナ」と呼び捨てにされることが多かった。

お母さん。

成人して働くようになって数年のうちに、故郷の実家に帰る機会はぐっと減っていった。
父は早くに亡くなっていた。
母が亡くなったのは突然で、もう3年前になる。
そろそろ母もいい歳になってくるから、親孝行しなきゃなんて思い始めていたところだった。
ほとんど何もしてあげられないまま、旅立たせてしまった。

洗面所を散らかしっぱなしにして、よく叱られた。
誕生日にはいつも私の好きなハンバーグを作ってくれた。普段はこねるのが面倒だからって嫌がったけど。
夜道を一人で歩こうとすると心配された。駅まで迎えに来てくれたこともあったっけ。


もうあの場所は世界のどこにもない。
あんなに安心できる場所はもうこれからない。
あの優しい手に頭を撫でられる心地を味わうことは、二度とない。
お母さんの手は、シラウオみたいに真っ白なんかじゃなかった。
丸っこくて、指の短い小さな手だった。

『マナちゃん』
もう一度だけそう呼ばれたいよ。

いつの間にか私もいい歳になったのに、
いつまでも大人になんてなれなくてごめんね。

こんな気持ち、ずっと、不意打ちにたまに思い出しちゃうけど、
もう死ぬまで帰れなくて寂しいけど、
忘れないからね。

ありがとう。会いたいよ、お母さん。

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