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なぜ暇を恐れるのか?非生産な日々でもいいじゃないか。

専業主夫を名乗っていると「暇」について聞かれることが多い。フルタイム労働をする友人から「暇すぎて辛くないの?」と心配されがちだ。

たしかに私は暇だが、辛くなったことはない。フルタイム労働者(友人)と主夫(私)では暇に対する感性が違うようだ。


暇を恐れる現役世代

私の友人たちはバリバリ現役世代。私は彼らから「暇じゃないの?」と質問されることが多い。その口調からは「この暇人め!」といった批判の気配は感じられない。純粋に疑問を抱いているように感じる。

「主夫になりたい?」と聞いても、大体は「なりたくない」と返ってくる。理由を尋ねると「家事が苦手」「今の仕事が好き」よりも「暇になったら困る」という旨の返答が多い。

彼らは暇を恐れているようだ。そして、仕事がなければ暇をつぶせないのかもしれない。

「非生産的な時間」を恐れる

とはいえ、暇を恐れる人なんて本当にいるのだろうか。今の時代、暇つぶしの方法なんて有り余るほどにある。

暇を恐れるのは、自由時間を恐れることに近しい。自由を恐れ、不自由を求めるなんて直感に反する。実のところ、暇を恐れる人なんていないのかも知れない。

邪推だが、暇を恐れる人は「暇な時間」ではなく「非生産的な時間」を恐れているのではないだろうか。暇を恐れる人は「有意義なナニカ」を生産していないと落ち着かない人ということだ。

「有意義なナニカ」はお金、他者貢献、他者との繋がりなど人により異なるだろう。有意義なナニカを生産したいと思う気持ちが強いほど、暇を恐れる傾向にありそうだ。

フルタイム労働をしていれば安心

社会的動物の本能なのか、学校教育の影響なのか、資本家の巧みな誘導によるものなのかは不明だが、ナニカを生産しないと気が済まない人は多い。

生産したがりな人にとって、フルタイム労働は自身の生産性を実感できる「安心パック」なのかもしれない。フルタイム労働は「お金」「他者貢献」「他者との繋がり」などの安心材料を提供してくれる。

事実、多くの人は学校を卒業するとフルタイム労働を志望するし、周囲からもフルタイム労働を推奨される。「正社員か公務員になれば安心」との考えも蔓延っている。

「働きたくない」とか「FIREしたい」的な意見も目にするが、本心では望んでいないのかもしれない。非生産的な自分を肯定できない限り、やるべきことのない状況に耐えられないだろう。

子なし主夫の暮らしは暇?

子なし主夫の暮らしは暇だ。ただ、友人たちの懸念とは裏腹に辛くはない。まずは私の暇度合いを明らかにすべく、一日の過ごし方を「生命維持活動」「家事」「自由時間」に大別してザックリと振り返る。

【生命維持活動】合計13時間
→ 睡眠時間:10時間
→ 3食分の食事:2.5時間
→ 風呂、歯磨き、トイレの合計:0.5時間

たっぷり寝て、ゆっくり食べる。これは欠かせない。

【家事】合計6時間
→ 3食分の炊事(片付けも含む):3時間
→ 掃除洗濯など:3時間

家事は6時間やっているが、そのうち2時間くらいは趣味的に無駄な家事をやっている。

【自由時間】合計5時間
→ いろいろ

家事の一部も暇つぶしだとすると、自由時間は5〜7時間ある。自由時間にはブログやnoteを書いたり、本を読んだり、音楽を聴いたり、散歩したり、ゲームをしたり、野球を観たり、アニメを観たりしている。

ありふれた暇つぶしである。そんな非生産的な暇つぶしの連続でも、不満も焦りも不安も生じない。私は自身の非・生産性に対する許容度が高いのだ。

何をもって有意義とするか

なぜ、人によって非生産への許容度が違うのか。ひとつ考えられるのは「有意義 or 無意義」の判定基準を外に持つか、内に持つかの違いだ。

判定基準が外寄りだとお金、肩書き、実績など客観的に認められやすいものを求める。外の基準に従うと褒められやすいが、常にナニカを生産しなければならない。程度の差はあれ、エリート志向とも言える。

判定基準が内寄りだと幸福、成長、趣味など自己満足の世界になってくる。ナニカを生産しなくても有意義になり得るが、他者から評価されないことも多い。

ただ、比較の上に成り立つ幸福や、市場価値を高めるための成長は外寄りな感じがする。比較を伴わない「自己満足」がキーワードになりそうだ。

自己満足は無敵

私は「有意義 or 無意義」を内寄りの基準で判定している。誰かに認められたい欲が薄く、お金稼ぎ、他者貢献、人間関係の構築に熱心になれない。

私は自分で自分を認められるキモい人間だ。

  • 製造者責任(産んだのは親であり、私が誕生を望んだわけではない)

  • 消費税を払うだけで日本社会に貢献している

  • 有機生命体として活動するだけで地球の炭素循環に貢献している

とかいう屁理屈を根拠に自身を肯定できてしまう能天気さを持っている。

自分が存在するのは単なる自然現象。日本や世界のために生きているわけでもない。ならば(法律の範囲内で)自分の好き勝手に生きて良い。文句があるなら親に言え。こんなチンケな屁理屈で自分を守れてしまうのだ。

(ちなみに親、親の親、親の親の親と製造者を辿っていくとLUCAという単細胞生物に全責任をなすりつけられる)

個人の人生は、良いように勘違いしたもの勝ちと考えている。私は映画『マトリックス』でいえば青い薬を飲む派。結局は自己満足できれば幸せになれるのだ。

あとがき

「周囲から有用性を認められるナニカ」を生産しなくたって、何の問題もない。人間なんて睡眠、食事、排便、運動、会話さえしていれば、そこそこに幸せになれる。いわば、平穏な日常が送れればそれで良い。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』にて「余暇の過ごし方を熟知している貴族」と「余暇に不慣れな労働者」が対比されていた。私は生活は質素だが、貴族的なマインドを持っているのかもしれない。

「平穏な日常を送るために必要な〇〇」を生産するのは有意義だが、それ以上は無意義に等しい。〇〇にはお金、信用、承認、食糧、物品、人間関係など何でも当てはめられる。

大変ありがたいことに私は平穏な日常を送れている。故に、これ以上のナニカを生産する必要も願望もない。非生産な日々を存分に楽しんでいきたい。

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