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第8回【斉の明暗】その1【鶏鳴狗盗】華麗なる王族の功罪

 しゅうの伝説的軍師・太公望たいこうぼう春秋五覇じゅんじゅうごはの一人桓公かんこうと大宰相・管仲かんちゅうの時代を経て強国として君臨し続けたのがせいです。斉は戦国時代の序盤に家臣であるでん氏に国を乗っ取られてしまいますが、田氏の斉・田斉でんせいもまた経済力を背景に繁栄しました。
 そんな斉の絶頂期にひとりの英雄が出現しました。

田氏の繁栄

 田氏は斉の王族であり、斉の要職は彼ら一族で占められていました。孫臏そんぴんをスカウトした田忌でんきもそうです。
 田氏は非常に多産であったため、多数の田氏が官職に就くことで斉国内の支配力を強めていきました。紀元前386年に斉を乗っ取ることができたのもこの強力な血縁ネットワークがあってこそでした。

 田文でんぶんという人物は田氏のなかでも上流の出身でした。田文の父田嬰でんえい名君として名高い威王いおうの息子で、兄の宣王せんおうもまた名君でした。また、田嬰は孫臏がを大破した馬陵ばりょうの戦いにも参加していました。
 しかし、田文は母親の身分が低かったことと兄弟が40人以上いた事からその立場は決して良いものではありませんでした。更に、当時は5月5日に生まれた子供は不吉であるとの迷信があったため、田文は生まれてすぐ実の父親から殺されそうになりました。可哀想に思った母親は田文を匿い密かに育て上げました。

 田文がはじめて父親と対面したのは大きく成長してからでした。田文が生きていたことを知った田嬰は激怒しました。
「何故この子が生きているのだ!5月5日に生まれた子供は、背丈が門戸の高さにまで成長すると親に害を成すと言われているのだぞ!」
田文はこれに反論します。
人の寿命を決めるのは天でしょうか。それとも門戸でしょうか。寿命が天命であるなら恐れる必要はないでしょう。寿命が門戸の高さで決まるなら高く作り直せばよいでしょう」
田文の理路整然とした回答に田嬰は納得しました。

孫の孫の孫は?

 また、ある時田文は父・田嬰に尋ねました。
「子供の子供はなんと言いますか?」
「孫である」
「では孫の孫は?」
玄孫やしゃごである」
「では玄孫の孫は」
「そんなものは知らんな」
「父上は斉の大臣として3代の王に仕えてきました。その間斉の国土は広がったわけでもないのに我が家の財産は増えました。その財産を国のために使わず、名前もよくわからないような親族に遺して何の役に立ちましょう
田文の言葉を受けて田嬰は私財を投げ売って国内外の知恵者や、武芸者、その他様々な才能を持った人材を食客として自らの屋敷に招きました。田文は食客たちの世話係として見事にもてなした結果、優秀な人材を多く抱える田嬰・田文親子の名声は斉国内だけでなく外国にまで評判になりました。

 田嬰が亡くなる際、40人以上の子供の中から後継者に選ばれたのは田文でした。
 後世、戦国時代に王に匹敵する名声や力を持った4人の大貴族を戦国せんごく四君しくんと呼びます。魏の信陵君しんりょうくん魏無忌ぎむきちょう平原君へいげんくん趙勝ちょうしょう春申君しゅんしんくん黄歇こうあつ。そして斉の孟嘗君もうしょうくん・田文は戦国四君の最初の一人にして、日本でも最も有名な人物です。

多くの人材こそが孟嘗君の強さ

鶏鳴狗盗けいめいくとう

 三千人と言われる食客を抱える孟嘗君の名声は、当時のしん王・昭襄王しょうじょうおうの耳にも入りました。秦は春秋時代の百里奚ひゃくりけいや戦国時代の商鞅しょうおう張儀ちょうぎなど外国から優秀な人材を招いて発展してきた国です。昭襄王は孟嘗君を宰相として秦に迎え入れようとしました。孟嘗君はこのスカウトを受け入れ、食客たちとともに秦へと赴きました。紀元前299年のことです。

 始めは歓迎された孟嘗君でしたが、斉の王室と近いことから危険視される様になりました。昭襄王の機嫌ひとつで命を落としかねない状況に孟嘗君は斉への逃亡を画策します。
 孟嘗君は昭襄王の妃に口利きを依頼します。妃は口利きの条件として白狐の毛皮を要求しました。白狐の毛皮は元々斉の宝物でしたが手土産として昭襄王にプレゼントされ、この時は秦の宝物庫に厳重に保管されていました。
 どうしたものかと困る孟嘗君に一人の食客が名乗り出ます。この食客はいぬのようにすばしっこい盗みの達人で、他の食客からは軽蔑されていた人物でした。しかし、この食客・狗盗くとうが白狐の毛皮を盗み出し、妃の説得に成功したのでした。

 昭襄王の気が変わらない内に秦を出国したい孟嘗君たちでしたが、国境にある函谷関かんこくかんで足止めを喰らいます。関所は朝になって鶏が鳴き出すまで固く閉じたままです。この時名乗り出たのが動物の鳴き真似が得意な食客でした。江戸家猫八さんみたいな人です。鳴き真似名人が
「コケコッコー」
と鶏の真似をすると本物の鶏たちが釣られて一斉に鳴き出しました。鳴き真似名人・鶏鳴けいめいの目論見通りに秦の門番は関所の門を開き、孟嘗君一行は無事に死地を脱出することができたのでした。

 学者や武芸者の食客たちは日頃から鶏鳴や狗盗も食客として厚遇されていることが面白くありませんでした。しかし、一見つまらない能力を上手に使いこなして窮地を脱出したことで、孟嘗君の先見の明や度量は今まで以上に天下に轟くことになりました。

狡兎三窟こうとさんくつ

 秦から脱出した翌紀元前298年、孟嘗君は斉、魏、かんの対秦連合軍・合従がっしょうを組織して函谷関で秦と激突。この戦いは合従軍の勝利に終わりました。その後、孟嘗君は従兄弟の湣王びんおうを宰相として支え、軍事と内政両面において活躍し、斉は戦国時代の絶頂期を迎えます。
 しかし、湣王は斉の国力が強くなるにつれて増長していきました。そして何より面白くないのが、
「孟嘗君があっての斉」
という風評でした。湣王の他国に対する高圧的な外交方針を諫言したこともあり、孟嘗君は宰相職を罷免されてしまいます。
 孟嘗君は父・田嬰から引き継いだ現在の山東省さんとうしょう棗荘市さんそうしにあたるせつという土地に引きこもる事になりましたが、食客の一人・馮灌ふうかんが進言しました。
賢い兎はいざという時に逃げ込める巣穴を3つは確保すると言います。あなたにとって安全地帯と言えるのは薛くらいのものです。あなたのためにあと2つの巣穴を用意しましょう」
馮灌の手際によって孟嘗君は枕を高くして眠ることができるようになりました。用意周到に安全地帯や安全策を確保することを狡兎三窟こうとさんくつと言います。また、枕を高くするもこのときのエピソードに由来します。

 孟嘗君はその後宰相に復帰しますが、またも湣王に嫌われて宰相を罷免されてしまいます。紀元前284年のことです。しかし、馮灌が前もって隣国・魏に根回しをしていたため孟嘗君は魏でも宰相として重用されることになりました。そして孟嘗君が去った斉は湣王の横暴に反発したえん・趙・魏・韓・秦の合従軍の前に惨敗を喫してしまいます。
 その後紀元前279年に孟嘗君は故国・斉に帰り、そこで亡くなりました。魏に亡命してからわずか5年ほどでしたが、その頃にはもう斉の繁栄は過去のものとなっていました。

英雄たちの罪

 孟嘗君を筆頭とする戦国四君はいずれも優れた能力で当時強国だった秦に対抗した英雄たちです。平原君の能力はちょっと微妙ですが。しかし王をも凌ぐ力や名声を得ていた彼らの存在は必ずしも国にとって有益だったとも言い切れません。時折国益よりも自分の信念や利益を優先させることも少なくありませんでした。特に本来国のトップであるはずの王様にとっては、制御が困難になるほどに巨大化した大貴族は脅威でした。

 逆に商鞅の変法によって戦国四君のような大貴族の出現を抑制することに成功したのが秦です。秦は王の指揮のもと富国強兵の道を進み続けました。
 英雄の出現により一時的に秦に勝利することも度々ありましたが、優れた個人の力で優れた組織を完全に打倒することは困難です。

 歴史を楽しむ上で、英雄伝説の主人公たちは華々しい活躍はなくてはならないものです。しかし歴史を学ぶ上では、英雄の存在が与えた負の影響も忘れてなならないと思います。