第5回おまけ【九鼎の行方と謎の巨人像】

 前回の講座で大嘘をついていたので訂正します。
 周王室に伝わる王者の証・九鼎きゅうていは周が秦に滅ぼされた後、巨人像に作り変えられたと言ってしまいましたがアレはウソでした。九鼎は川に沈み、巨人像は全く別のタイミングで作成されていました。
 今回は九鼎のその後と巨人像についての小咄をさせていただこうと思います。

失われた王者の証

復元された九鼎

 前回の講座で私は間違えて、
「九鼎は溶かされて巨大な像になったと記憶している」
などと大嘘をついておりました。記憶がごっちゃになっておりました。

 九鼎については史書に以下のような記述が存在します。

「始皇還,過彭城,齋戒禱祠,欲出周鼎泗水。」
始皇帝は(巡幸から)帰り、彭城を過ぎ、斎戒して祠に祈り、泗水から周鼎を出そうとした。
『史記 始皇本紀』

「其後百二十歲而秦滅周,周之九鼎入于秦。或曰宋太丘社亡,而鼎沒于泗水彭城下。」
その後120年して秦は周を滅ぼし、周の九鼎は秦に持ち去られた。あるいは宋の太丘にあった宗教施設が滅び、鼎は彭城近くの泗水に沈んだ。
『史記 封禅書』

「後百一十歲,周赧王卒,九鼎入於秦。或曰,周顯王之四十二年,宋太丘社亡,而鼎淪沒於泗水彭城下。」
その後110年して、周の赧王が死に、九鼎は秦に持ち去られた。あるいは、周の顯王42年に、宋の太丘にあった宗教施設が滅び、鼎は彭城近くの泗水に沈んだ。
『漢書 郊祀志』

 以上のように九鼎は泗水しすいという川に水没したものと見られます。
 では、この九鼎に相当する宝物、日本で言うところの三種の神器ポジションの宝物はその後どうなったのか。ここで三国志好きならピンとくるかもしれません。天下統一を果たした始皇帝しこうてい丞相じょうしょう李斯りしに命じて新たな帝王のシンボル・伝国璽でんこくじを作成しました。日本では玉璽ぎょくじと言ったほうが通りが良いかもしれません。孫堅そんけんが井戸から見つけた事で有名なあの玉璽です。
  伝国璽はその後魏晋南北朝時代を経て隋唐帝国に引き継がれました。しかし、唐の滅亡後の五代十国時代に失われたそうです。10世紀頃の話です。

清代(乾隆期)に作成された伝国璽

幻の巨人像

巨人像の想像図

 始皇帝が作らせた巨人像について少しお話します。天下統一後に始皇帝は滅ぼした国から武器を集め、それを鋳造して12体の巨人像を作成しました。発想としては豊臣秀吉の刀狩と同じ発想です。
 どのくらい巨大かというと

「秦始皇帝二十六年,有大人長五丈,足履六尺,皆夷狄服,凡十二人,見于臨洮。(中略)是歲始皇初并六國,反喜以為瑞,銷天下兵器,作金人十二以象之。」
秦の始皇帝の26年、高さ5丈の大きな像があり、足のサイズは6尺、皆異民族の服を着ており、12体、臨洮に向かって立っていた。(中略)この年始皇帝は六国を併呑し、これを記念して、天下の武器を溶かして、12体の金属像を作った。
『漢書 五行志』

 長さの単位の丈や尺は時代や国によって違うので注意です。
 漢の時代では1丈が231cm、1尺が23.1cmなので、高さ11m55cm、足のサイズが1m38.6cmとなります。参考までに鎌倉の大仏様が約11m、台座を含めると13.35mですね。
 また材質については金人とありますが、ここでは金属全般を指します。当時の武器はまだまだ青銅が主だったので、巨人像の材質もほとんどが青銅だったでしょう。
 巨人像のうち10体は三国志の悪役でおなじみの董卓とうたくが貨幣を作るために溶かしてしまい、残る2体も五胡十六国時代に前秦ぜんしん符堅ふけんによって溶かされてしまいました。

 ただ、『十二金人』の字面を見て最初にイメージするのはこの映画のこのシーンなんですよね。