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「眠るのは嫌い 夢を見るから」

「夢」というのは不思議な言葉で、睡眠中に見る幻覚も「夢」というし、現実に思い描く空想も「夢」といい、未来への計画も「夢」という。自分の経験や思考の延長にある、内的にあふれてきた実体のないものが「夢」であるわけだ。

私は元来、夢のない子どもだった。小さいころから「将来の夢は?」と聞かれることが苦手。強いてあげられる私の夢といえば、もうずっと昔から決まっていて、誰にも気づかれず、悲しまれず、この世の誰ひとりの記憶にも残らず死んでいきたいというものだ。そこに終着できるのであれば、人生の内容は何だっていい。それは一般的な輝かしい夢想とはあまりにかけ離れていて、罪悪感から他人に話すことはできなかった。「夢」のない子どもは愛されないという緊張がいつもあった。ぼんやりとした計画はあって、20歳になったら父の戸籍から自分を外して、母の親権からも解放され、私は独立して死んでいけるだろうと思っていた。実際のところ、20歳では独立ともいかず、私が頑張った証しの成績表は私よりも先に「保護者」のもとへ届くし、親からの経済的な支えも多分に受けていた。そのころに出会った人は、すごくいい人たちで、私の精神を持ち上げてくれたし、学問に触れることも自分と事象しか世界にはないような感覚を与えてくれて、今死ぬことは意味のないことなのかもしれないと思えた。一人暮らしになって、やっと親のためにではなく自分のために生きれている気もしていた。でもやっぱり、希望にあふれた「夢」を描くことはできず、好きなことはあるけれど、奪われても絶望はしないのであろうぬるさの中にずっといる。

西村ツチカさんの漫画『さよーならみなさん』の中に、自分の葬式の参列者を増やしたいがため、善行を続けている男子高校生が出てくる。彼はいいことをするたび、自分の棺の前に長蛇のごとく並ぶ人々を想像し、悦に浸る。読んだときに「あぁ、わかるわかる」と思った。誰一人葬列に並んでほしくない私とは反対といえるかもしれないけれど、「生きている理由」を、「自分が生きること」に置けないというのは一緒だ。

定番夢想ネタというのはだれにでもあるものだろうか。私には30分以上の徒歩帰宅をする際に必ずしてしまう夢想がある。それは帰宅すると家が燃えてなくなっているというものだ。出火の原因は抜けかけたコンセントや、消し忘れたストーブ、ベランダに出していた段ボールに放火されるなどなど。家に到着するとすでに燃えがらで黒々となった部屋がある。自分の生活基盤が突然なくなってしまうというのは、思考の上だけであれば愉快で気楽なものある。大事にしていた本も、捨てられなかったぬいぐるみも、サインをもらったCDも全部燃えて、お気に入りの金属の椅子はかわいらしいミントグリーンの塗装が溶け、ゆがんで黒く立ち尽くしている。すべて燃えてくれたら、「誰かにとっての誰」でもなくなることができるかもしれない。しかし、期待とは裏腹にいつも家は無事なままである。キャッシュカードやクレジット、身分証明書はお財布に入れてあるし、家が燃えたところで意外と生きていけるんだろうなとも思う。がっかり。

映画『オオカミの家』を観てきた。予告を観た時から絶対に観ようと決めていたチリのストップモーションアニメ映画だ。大評判らしく、数件のミニシアターでの上映から、じりじりと全国へ上映館数を増やしているそうだ。そんな評判に引けを取らず、とんでもなくすごい映画だった。グロテスクな大人のホラーフェアリーテールとのことだが、私はグロテスクさをあまり感じず、ただただ新しい映像表現に圧倒された。
チリ独裁政権下で暗躍したカルトコミューン「コロニア・ディグニタ」。豚を逃がしてしまった罪で「おしおき」を受けた少女マリアはコミューンでの生活が嫌になり脱走をする。逃げ込んだ家で2匹の豚と暮らし始めるマリア。そこでの生活や悪夢、抜け出せない洗脳が、実物大の小部屋の中で人形、壁画、セットを流動させながら、時に2次元と3次元をまたぎ、ワンカットで描かれていく。チリの歴史についてはもともと興味があって勉強をしていたし、今回の映画に合わせてNetflixのドキュメンタリー『コロニア・ディグニタ: チリに隠された洗脳と拷問の楽園』も視聴し、予習はばっちりだった。とはいえ、内容は特殊な閉鎖コミュニティで起きた悲劇についてだけではなく、もっと人間の普遍的な危うさを描いていて他人事として観ることはできなかった。安全だと思っている家の中、オオカミの声が問いかけてくる。「お前の家は何でできている?」「私の存在を感じるか?」「お前をいつも見ている」「マリア…マリア……」。幼少期に植え付けられたトラウマは消えることはないし、マリアはあんなに恐ろしかったコミューンのやり方を自身の家で、踏襲してしまう。なぜならそれ以外の方法を知らないから。「おしおきはいや」「家の中は安全」「外にでてはだめ」「お行儀よく」。外の世界に出て、生活を知るほど、自分の今までの生活の異常性に気付くし、またそこで培われた精神の不可逆性に絶望する。その気持ちが痛いほどわかった。オオカミも怖いが、外も怖い。結局、追い詰められたマリアが弱弱しく「助けて」とオオカミを求めてしまう場面は、涙があふれそうになった。

治るんじゃないか。夢を見られる日もあるんじゃないか。私もそう期待したことがある。他人に大丈夫だよ、と言ってもらったこともある。それでも自分の負っている傷を知れば知るほど、それは難しそうだと思えた。「大丈夫」なこともあれば「大丈夫じゃない」こともたくさんあった。幸いそのあたりの判断は非常に冷静だと思う。そして最近、大切にしていた夢について重大なことに気づいてしまった。「誰にも気づかれず、悲しまれず、この世の誰ひとりの記憶にも残らず死んでいきたい」の「誰」に含まれる人物はおそらく、ただひとり。「母」であると。私が死ねば母は誰よりも傷つき、そして自身も死を選ぶだろう。その確信が幼いころからずっとあった。だからこそ私は生き続け、母のためにできる限り天使的に立ち振る舞っていた。悲しい確信が私を生かしていたに過ぎないのだ。自覚したときには支配から逃れられていない自分に驚愕した。そして、それと同時に母が死んだら私はどうするのだろうという疑問も沸いてきた。私は私のために生きる術をまだ知らないのに。どうしようもなく不安である。でも私は誰も恨まないことに決めている。事象があり、結果がある。結果について冷静に見極め対処する。悪夢を見るなら眠らなければいい。我々、へなちょこ人間は実体のあるものに対処するだけで精一杯なのだ。安心な家でないなら、オオカミが来る前に燃やしてしまえばいい。
夢なんてくそくらえだと思う。

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