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となりのXさん その2

残念ながら物干しには一枚も服はかかっていない。
というよりも、ベランダには何も物が置かれていない。

僕は湧き上がる好奇心をどうにも押さえられず、
手すりをしっかりと握って安定性を確認すると、
上半身をさらに隣家のベランダに侵入させた。

カーテンは引かれていなかった。
西日に照らされた部屋の中が一気に丸見えになり、
僕はそのさまに息をのんだ。

部屋の中には、家具が一つもなかった。
家具どころか、物が何もない。
本一冊、ペットボトル一本転がっていない。
がらんとしているのだ。
およそ生活臭というものが感じられなかった。

いや。
一つだけあったのだ。壁際に。

我が家に面している方の壁のすぐ前に、
ぼろぼろに錆びたぶら下がり健康器がある。
そしてそこには百キロくらいはありそうな、
畜獣のものと思しき肉塊がぶら下げられていた。

その肉塊の真ん中辺りに、
A4のレポート用紙がガムテープで貼り付けられていた。
用紙には細い黒のマジックで書かれていた。「みづえ」と。

異様な光景だった。
みづえ、と書かれたレポート用紙の貼られた巨大な肉塊の前で隣人は正座し、
一人でしゃべり続けていた。
ベージュの開襟シャツと紺色のスラックスという、いつもの格好で。

ラジオはなかった。しかし落語は聞こえる。
奥さんもいない。しかし奥さんの声も聞こえる。

すぐに謎がとけた。
それはすべて隣人一人の声なのだ。
つまり、形態模写である。

隣人の声はパートごとにがらりと変化した。
落語は見事だったし、
「みづえ」らしき人の声は完全に女性のそれだった。

僕は呆気にとられて見入ってしまい、
隣人がこちらに気付いた後もまだ見ていた。
はっ、と気付いた時には遅かった。
隣人はベランダまでゆっくりと歩いてくると、
ガラス越しに僕の目をまっすぐに見た。

唇が動いた。

僕はぞっとした。
多分、彼はこう言ったのだ。

(ダレニモ、イイマセンヨネ?)

隣人の細い目はピンポン球くらいに見開かれていた。
「ぶつり」というラジオの切れる音が、
その口から聞こえた。


物件は気に入っていたので、
そんな妙な隣人がいるからといって引っ越すという選択肢は僕達にはなかった。
嫁さんは恐れていたが、特に実害があるわけでもない。
それからも何度か<腹話術的一人痴話喧嘩>が隣から聞こえてきたが、
僕達は気にしないようつとめた。

ある日、隣人は引っ越していった。
小さくなったろうそくの火が消えるように、ごくごくひっそりと。
我が家の郵便受けには小さな紙片が差し込まれていた。
そこには

『どうもすいませんでちた』

と、ミミズがのたくったような字で書かれていた。


いずれ引っ越してくるであろう次の隣人は普通の人がいいなあ、
と僕は心の内で静かに祈った。




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