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狛犬 その3

それは両手で釣り糸と針をしっかり握っていた。
そして黒い海面から、鼻の辺りまでを出している。
力のない両目は、それでもしっかりとA君を見つめていた。
コピー用紙を思わせる真っ白い顔に、
まばらな毛髪が海草のようにへばりついていた。

気付くとA君は竿を強く握り締めていた。
握りたくて握っているのではない。
手がこわばって離せないのだ。

体は金縛りにかかったようにほとんど動かせない。
両足はじりっじりっと前に滑っていく。
A君の言葉によると、

「滑り台の斜面に立っているよう」

だったらしい。
足を少しでも動かそうとすると、前に滑る。
一メートル先は、真っ暗な海である。

落ちたらきっと助からない。A君は本能的に悟った。

これはやばい、と思い、A君はもう一度海面を見た。
黒い海面に浮かぶ頭は十数個に増えていた。
いずれも鼻から上を水から出し、
生命感のない目でA君を凝視している。
ひひひひひ……とか、ふふふふふ……といった、
陰に篭った嗤い声があちこちから聞こえた。

<あとすこしだぞ>

<もうちょっとでおちるぞ>

という声も聞こえた。

もう一歩も足を前に出せない。
覚悟を決めたA君は後ろにジャンプし、
リュックに飛びついた。
その瞬間、竿が手から離れた。
体は依然ずるずると海に向かって滑り続ける。
A君はリュックから狛犬の面を取り出した。
そしてそれを被ると、顔を海に向けた。
とたんに嗤い声が止んだ。

そのまま、おそらく十数秒。
強く瞑った目を開けた。
海面の頭は一つ残らず消えていた。
水を被ったように、全身が汗でぐっしょりだった。


奥さんに聞いてみると、
狛犬の面をリュックに入れたことなどまったく記憶にない、という。

かくしてその面は家宝となり、
朝に夕に、A君は手を合わせて毎日に感謝している。


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