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漱石「文芸の哲学的基礎」に親しむ。(谷垣記)



はじめに

 私は漱石が好きである。
 風変りな叔父を子供心に慕うような好感が私の漱石には有る。極々詰らぬ親戚の会合も、漱石叔父さんが来ると聞けば余程重い腰もふわりと浮つき、きっと前日の晩にも成ると、如何困らせて遣ろうか知らん、と此ればかり考えて、無邪気な胸を其の儘に夢の中に入る自分が容易に想像される。
 私は漱石の前では何処迄も甥で在る。蓄えた口髭は威厳に在らず、含み笑いの対象である。詰り、親しむのである。
 世に彼の小説を親しむ文章は可成り有るが、評論と成るとそうでもない。手強い感じがするのかしらぬ。唯の評論(無論そんなものはないのであるが、)ならまだしも、其処に漱石が冠されると、猶更御気楽に手出しは出来兼ねる感が有るのやもしれぬ。そんな者等の為に、一寸今回は、漱石の評論に親しんでみようと思う。何も評論と云って、そう読む方で改まる必要はない、ははあそんなものかね、と其れ位で好いのである。親しむとはこんな具合である。此れが敬愛と成ると途端目的が究明に代わり、御堅い物に一転するから恐ろしい。敬愛が悪いと云うのではない。極端だと云うのである。中間が有っても宜しいではないかと云いたいのである。其の中間が、丁度親しむに相当すると私は思うのである。が、親しむに限る以上、背伸びは厳禁だから、其の辺は殊に注意して事を進める積りである。
 

「文芸の哲学的基礎」の恣意的概略

 さて、始める前に一つ断って置きたい。
 私は上に単に概略とせず、恣意的を付した。というのも、単に概略と打てば、其処に親しみも何も無いからである。私は此れから恣意的な概略を展開する。評論の最後に至る迄重要でないと思われる処は寸断して、云わば背骨に当たる部分をのみ概略として示そうと思う。論として機能はすれども、必ずしも背骨に付随しないような部分に就いては省いた。其れは主だって前段としての「意識」を論ずる段に顕著である。恣意的概略と云えば聞こえは好さそうだが、其の実出鱈目である。されど、要点は看過されて居ないとは思う。

 「文芸の哲学的基礎」は、明治四十年、漱石が東京芸術学校(現東京芸術大学)文学会の講演依頼に際して述べられた文芸評論である。
 此れから恣意的概略を試みようと思う。

理想の意識と精神の三要素「知、情、意」


 我というもの其れ自体は「意識の連続」である。此の連続を絶やさぬという点に於いて、我々は生きようとする「生欲」がまず有り、其処から如何にして生きるかという「意識の選択」が始まり、其れが為に種々の「理想」が産まれる。其の「理想」に従って「意識の選択」が成されると、即ち「意識の選択的傾向」と成り、唯生きよう生きようとする「意識」を或る方向に統一(発展と換えても宜しい)成らしめ、斯くして、「生欲(生きよう生きよう)」が「特別の有意義を有する命」を欲するように成る。
 「文芸の哲学的基礎」の「文芸」は、さような「理想」を基礎にして、我の精神を構成する三大要素「知、情、意」の内、情を主として働かせ、物との関係を味わうという処に原初が有る。引用すると判り易いから下記に示す。


知を働かす人は、物の関係を明らめる人で俗にこれを哲学者もしくは科学者と云います。情を働かす人は、物の関係を味わう人で俗にこれを文学者もしくは芸術家と称えます。最後に意を働かす人は、物の関係を改造する人で俗にこれを軍人とか、政治家とか、豆腐屋とか、大工とか号しております。

「夏目漱石全集10 ちくま文庫」

無論、「知、情、意」を個別に働かせてそう云うのではない。其の三つの内で「重き」を一つに定めると如何なるかを簡単に言表したのである。故に、漱石は、

比較的情を働かす意識の連続をもって生活の内容としたいと云う理想からとうとう文士とか、画家とか、音楽家になってしまいます。

同上

と、「重き」を「比較的」に言い換えて、其の理想に文芸に励む者を導出して居る。
 「情」という理想でもって「物の関係を味わう」には、先だって「知」という理想でもって「物の関係」を明らめなくてはならず、また先だって、「意」という理想でもって「物の関係」を改造してなければならない。詰り、「物の関係を味わう」為に働く「情」という理想の更なる発芽の為には、是非とも「知、意」を働かせなくてはならない。此の前提が漱石の頭に有るからこそ、「重き」を今一度「比較的」に換えて居るのである。
また、稍翻して其の前提を示すとこうなる。

すなわち物の関係を味わい得んが為には、その物がどこまでも具体的でなくてはならぬ。知意の働きで、具体的のものを打ち壊してしまうや否や、文芸家はこの関係を味わう事ができなくなる。したがってどこまでも具体的のものに則して、情を働かせる、具体の性質を破壊せぬ範囲内において知、意を働かせる。 ——―まずこうなります。

同上

上の引用の、「具体的のものを打ち壊してしまう」知意の働きというのは、「物の関係」を味わう事の出来ぬ程度にまで抽象する事を意味する。例えば、林檎が三つある。其処から、一、二、三、と林檎を数に抽象する。そうなると、情で一、二、三の林檎を、その物を味わう事は困難である。文芸家には、林檎其れ自体、つまり「具体的の物」が無くてはどうしようも無いのである。すべて「情」の為に、「知、意」を働かせる限りにおいて、一層「物の関係」を味わう事が出来る、とこういう訳である。

「文芸の理想」四種 1「美」


さて、一層「物の関係」を味わう文芸家の「理想」即ち「情」は、自然物や人などの「物」また其の「関係」に対して、其れ等の造形や色合い、大小、等々に、好悪を有するのは云う迄も無い。即ち趣味である。そして其れ等、「物」や其の「関係」に好悪の生ずればこそ、其の内で最も優れた「物」や其の「関係」を意識したくなる。その結果、

その意識したい理想を実現する一方法として詩ができます、画ができます。この理想に対する情のもっとも著しきものを称して美的情操と云います。

かようにして美的理想を自然物の関係で実現しようとするものは山水専門の画家になったり、(中略)それからまた、この美的理想を人物の関係において実現しようとすると、美人を詠ずる事の好きな詩人できたり、これを写す事の御得意な画家になります。

同上

と斯く云う次第で、各々の「情」が趣味から転じて「美的理想」に成り、「美的理想」を自然物か人物か、其のいづれかの「関係」で実現しようとすると、画家であれば、一方は風景画家に成り、一方は肖像画家に成るというのである。詰り、「情」という理想から、「美的理想」つまり、理想としての「美」が産まれるという事である。
 因みに、美的情操というのは、自然物や人物を其れ自体目的として認める「情」の作用の美的な、詰り、優れた物や其の「関係」を意識する高まりを意味するからして、例えば、山を見て豊富な材木とし、此れを方々に卸せば云々と所謂「意」の働きで以て改造しようとする者や美人の顔の造形を看て、其の一々の比率を数として抽象しようとする「知」を働かせる者、云わば、或る対象を或る別の目的の手段と看るとき、其処に美なるものは観じ得ないのである。此れは、他方、カント著「判断力批判」での「趣味」の議論でも見られるもので、「目的」として観る処に適意の感やら快不快が生ずるという彼の論説にも通じて居る。

 「情」から「美」が理想として発現するのは、自然物や人物、またその関係を目的として意識した場合である。詰り、外界一般を意識した場合である。言い換えれば、限りなく「情」の理想に重きを置いて、「物の関係」を味わうからして、其処から「美」という理想が産まれるのである。文芸の理想の内の一つは「美」という事になる。
 処で、漱石の考える「文芸の理想」は、計四つ、「美」の他に、三つ有るのである。

「文芸の理想」四種 2「真」


一つは「真」である。「物の関係」を味わう為に「知」を働かせて、其の「物の関係」を明らかする事で、其処に新たな「情」が起こる。其の「情」こそが、「真」である。忘れてはならぬことは、「情」の作用される「物の関係」が「具体的の物」であるという事である。此れを始発終着として、其の内で「物の関係」を明らかにするのである。
何が其の、「真」であるか、具体例を引用する。

 

たとえば父子が激論していると、急に火事が起って、家が煙につつまれる。その時今まで激論していた親子が、急に喧嘩を忘れて、互いに相援けて門外に逃げる。

大変中のよかった夫婦が飢饉のときに、平生の愛を忘れて、妻の食うべき粥を夫が奪って食う

同上

上の引用は、「父子」という具体の関係、其れが結局援け合うものだと云う因果が「知」に明らかにされている。「父子」という関係に、「火事」が関係しても猶、援け合い、激論の最中でも其れを忘れぬというのが「知」から得た「情」である。
下の引用で「知」によって明らかにされて居るのは、まず「夫婦」という具体の関係での前提としての援け合いが、平生の愛が、「飢饉」によって崩される、という、新たな「夫婦」の関係である。如何なおしどり夫婦と云えど、二つにして一とはどうして成らず、矢張り個々にまず人間として在るというのを示して居る。
「具体的の物」の関係を「知」を働かせて明らかにする事で得られる「情」は、以上見て来たように、一つの因果、「父子の援け合い」から更に其れが「強固」であるという処に得られもし、また、「夫婦の援け合い」は「崩壊」するという、一般に援け合う因果になりそうな処を、裏切り形で得られもする。此れ等更に込み入った因果や新たな因果に「情」を得るが、「真」という理想である。

「文芸の理想」四種 3「善」

次に「善」である。平たく云えば、人物に対する愛、更には、忠、孝、義侠心、友情、此れ等を総称した理想が「善」である。殊に、「善」の内の、愛に就いては、其の内でも更に分化して、所謂不倫の其れやらも愛の分化の一つである。

ようやく思いが遂げていっしょになる明くる日から喧嘩を始めたり、

同上

というのも愛の分化として例示されて居る。

 此の「善」という「文芸の理想」の前段には、「具体的の物」に「情」を働かせるときにまた一種の情を得ると説明がある。此の場合の「具体的の物」の多くは「人」である。更に、我々は、其の「人」を通じて、「情」としての喜怒哀楽を得るのであるが、抑々我々は心裏の内の大部分を喜怒哀楽が占めて居るという事も忘れてはならない。此の、心裏の喜怒哀楽というのは、「人」を通じて「情」があらわれる時に始めて享受され、其処で初めて喜怒哀楽出来ると云うのである。其の「人」を通じて現れた「情」が享受する喜怒哀楽は、無論「人」に依るものだけれども、そうして享受した喜怒哀楽に亦一種の「情」が今度は、「人」でなく我の中で得られる。此の二つの「情」を差別する為に

例えばある感覚物を通じて怒りという情をあらわすとすれば、この作物より得る吾人の情もまた同性質の怒りかも知れぬけれども、両者同物ではない。前の怒りは原因で後の怒りは結果である。わかりやすく云い直すと、前の怒りは感覚物に付着した怒りである。後の怒りは我と云う自己中に起こる怒りである。

同上

と漱石は述べて居るのであるが、白状すると、此の「善」に繋がる筈の前段としての「情」の話はあんまり合点が行かない。其れに漱石自身、此処は大分端折って次の「理想」に急ごうとするから猶更である。
文芸家の「理想」としての「善」に重きを置くと、愛、忠、孝、義侠心、友情、等、詰り道徳的に「人」やその関係を表現するのだという理解で差支えなかろう。

「文芸の理想」四種 4「荘厳」

「文芸の理想」としての「真」は、始発終着に「情」を持ちながら、言い換えると、其れ自体として見るを忘れずに「具体的の物」や其の関係を「知」に働かせて明らかにするということで、成る程尤もらしい事を表現し得る。
 今度、其の「知」が「意」に置換すると、此れが「文芸の理想」として、「荘厳」と成る。
「意」とは、抑々、「物の関係」を改造する精神要素の一つである。そういう生活をする人を政治家やら豆腐屋やらと称するというのは、先の引用の通りである。
其の「意」が「情」を通じて「具体的の物」に働くと、其の「具体的の物」は忽ち何処迄も道具に成って、其の道具の為に、「意」が「意志」として判然と道具の内であらわれて来る。そして其の「意志」自体が目的と成る。

今かりに大弾丸の空裏を飛ぶ様を写すとする。すると、これを見る方に二通りある。一は感覚なるもの(具体的の物)を通して非常に猛烈な勢いをあらわす。すると弾丸は客で、実の目的は弾丸をあらわす猛勢である。

同上

険しい高山の登頂に挑む者は、其れ自体自ら命を懸けて得る処に大金の在るでもなく、そうでもしないと妻子の命が危ういなぞというのでも無いから、一見すると大層馬鹿らしい人間のように思われる。が、実際は、さような一寸無理に挑む者に対してすっかり感服してしまうものである。此の場合、登山家は客で、実の目的はというと、其の登山家を表す屈強である。
「情」の内に「意」が働くと、「具体的の物」に意志が通い、そして其の意志の作用によってあらわれるものが「情」の味わいに成るのである。
 更に其の意志の作用が、「善」をも目的に持つ時、例えば、国の為であるとか、病に倒れた母の為であるとか、恋人の為であるとか、所謂徳義的な理想の為、そういう場合には、より一層、非常な高尚が「情」として得られる。漱石は此れを、一寸英語に置き換えて、「heroism」と名付けて居る。「heroism」に就いては、猶悲劇的な結末(運命としても好いやもしれぬ)をも含めての主題であると思われる。アナトールフランス著の「神々は渇く」や鴎外の「うたかた記」なぞは其の一例のように考えて居る。以上を総称として「荘厳」とし、「文芸の理想」の一つとして居る。

評論部


此処で漸く、というのも、「文芸の理想」として「真、美、善、荘厳」を揃え終えたので、漱石の「文芸の評論」に入る事が出来る。
 其処では、先述の、理想と理想の関係から新たな理想が出てきたり、理想の内から幾つか理想が産まれたりはしない。此の四種の「文芸の理想」は個々に並列して、互いに平等の権利を主張し合う。相互不可侵の条約も有る、というより、漱石は、此の平等と相互不可侵を第一義的に考えて居るのである。

これら四種の理想は、互いに平等の権利を有して、相冒すべからざる標準であります。だから、美の標準のみを固執して真の理想を評直するのは疝気筋の飛車取り大手のようなものであります。朝起を標準として人の食欲を批判するようなものでしょう。御前は朝寝坊だ、朝寝坊だからむやみに食うのだと判断されては誰も心服するものはない。

同上

更に批評に就いては、

ここに見当違いの批評と云うのは、美をあらわした作物を見て、ここには真がないと否定する意味ではない。真がないから駄目だ作物にならんと云う批評を云うのである。真はないかも知れぬ、なければないでよい、(中略)しかし現にある美だけは見てやらなくっては、せっかく作った作物の生命がなくなる訳であります。

同上

上記からも判る通り、漱石は一つ「理想」の為に他の「理想」が欠乏するような作品に就いては、其の実問題にして居らない。
 亦、一つの「理想」の為に他の「理想」を打ち崩しにする作品に就いては、他の「理想」の欠乏を全く意識させない、他の「理想」を読む方で忘却させるという、天才でも難しい見事な手際を見せた作品でない限りは、其の仕事は、詰り一つの乏しい「理想」に依る作品という事に成るのであるから、唯其の「理想」が一本棒切れの立脚するが如くであると断じては居るものの、されど、漱石は、其の一つの「理想」を長所と見、他の「理想」の欠乏を短所と見て、惜しいと評して居る。惜しくとも文句は付くと評して居る。しかし此れは、一つの「理想」が、他の「理想」を打ち崩しにする場合である。一の「理想」が敢えて他の「理想」の虐げたりする場合は別である。例えば、谷崎著「痴人の愛」なぞは其れに当たるであろうと思う。あれは、徹頭徹尾「真」を理想とした作品である。「善」や「荘厳」の無いのは明らかである。故に後味の頗る悪い。どうして「善」に傾きそうなところを断じて「真」で以て表すから困惑する。怪異の作である。

現代文学の理想 「真」


当時明治四十年、漱石は四種の「理想」を斯く論じた後、現代文学の理想は何であるかについて述べて居る。

美と云うものを唯一生命にしてかいたものは、短詩のほかにはないだろうと思います。小説には無論ありますまい。

同上

現代の理想が美でなければ、善であろうか、愛であろうか。この種の理想は無論幾多の作物中に経となり緯となり織り込まれて居るには相違ないが、これが現代の理想だと云うには、遥かに微弱過ぎると思います。

同上

現代の世ほどheroismに欠乏した世はなく、また現代の文学ほどheroismを発揚しない文学は少なかろうと思います。現代の世に荘厳の感を起す悲劇は一つもないのでも分ります。

同上

すると残されるは「真」である。漱石は、現代の理想を「真」に認めて、其の文学的傾向を深く案ずる弁を取る。
 凡そ「理想」は其の内で限りなく分化するものである。其れは「善」の内の「忠、愛」に分化される事からも明らかである。「真」もそうである。「真」は、あらゆる「具体的の物」の関係を明らかにして、其処に「情」を得るの「文芸の理想」である。明らかにした「具体的の物」の関係を更に明らかにするのが「真」の分化の過程である。此の果て無き先には、極々狭い自分ばかりの料簡で出来上がった世界が産まれる。其の世界は、連なる「真」が構成の要素である。漱石は、「専門家」を引き合いに出して、

世の中に何が狭いと云って、専門家ほど狭いものはない

同上

と云う。文学の理想として「真」が現代の理想に成ると、すっかり専門家染みた料簡で物を書くんではないかと暗に申して居る。狭い自分ばかりの世界に生き、他者の住まう世界を認めないような処に落ちるのではないかと危惧して居るのである。(無論専門家が悪いとは云って居らぬ、便宜上引き合いに出した迄ある。殊文学に成るとどうか、と云うのである。)

真を重んずる結果、真に到着すれば何を書いても構わない事になる。

同上

極端に云えば、「真」で以て人間関係を明らかにしようとして行き着いた先が、結局の処、裸体同士での交際が一等偽りなく、本当の交渉が出来るからして、皆衣類を脱ぎ捨てて、公然と裸体であらわれよ、とすればどうであろうか。どうであろうなぞと云う迄もなく、そんなものは文明と衝突する。社会の習慣に反する。が、何せ時代は「真」の時代である。社会には許されなくとも、堂々とさような事を現表する作品を書いて平気である者が続々後を絶たぬ。かような事は起こり得ぬとも云えぬのである。
 以上、評論らしい評論は此処迄である。「真」を文学の理想とした先の弊害を危惧して、一区切りついて居るから、私の恣意的概略も此処で仕舞にする。

おわりに

 私は文学を研究して居るのでも無いから、漱石の其の「真」を理想とする文学が本当であったか、本当で有ったとして其れは如何程に進行し、如何なる影響を社会に及ぼしたかなぞはちっともわからない。判らないが、どうも所感では、其れが本当であったように思われて成らぬ。でなければ、現代に於いて、文学というものが、史跡の如くとは成らなかった筈である。というのも、「真」を理想にした文学が、専門書やらビジネス本やら自己啓発本やらの下火に成り、そうして他の理想を疎かにして居る裡にも、漫画が他の理想を実現する、アニメが其れ等を実現する、そうして取り付く島もない文学は、何だか不明瞭な「純文学」という好く判らぬ席に甘んじて、其処でも矢張り、「真」を理想として居るのではないかと思うのである。自分ばかりの料簡で以て作り上げた狭き、他者の世界を全く知らない世界に今尚、というより、最早其れが取柄だか何だか思って居るのか知らぬが、さような処に引き籠って居るような気がするのである。
 私は兼ねてより、現代の文学はどうやら特殊を主題に採用する嫌いがあると思って居た。其の特殊も、特殊と言い当てて居るだけで、其の実「理想としての真」と好く好く通じる処がある。
 いや、時代が時代、時代そのものが専門家を好むような時代だから、その時代に有って文学が、堂々と「真」を理想として何が悪いというような感じもないではない。寧ろ、其の「真」を現代に在って理想とするからこそ、何でも自由に遣れると云うもので、詰る処、「真」に行き着けば其れで宜しいの風潮が、文学のみ成らず時代の風潮なんだから、其れに乗らぬは一寸勿体無いのやもしれぬ。
 だが、敢えて意見すると、私は今の世に有って文学が聊かでも「荘厳」に傾けば、再興の余地は大いに有ると考えて居る。何時の世も人心は不変である。今は「真」に浸って居るとしても、「荘厳」や「善」は陰で控えて居るだけで、失っては居ないのである。確かに、其処で云うと、「荘厳」も「善」も漫画、アニメが奮闘して居るから、向かう処に何らの壁が無いとは云えぬ。だが、文学は文学である。仮令其れが短い物でも、長い物でも、感化の力を云えば一等である。一見して一から十迄描写され尽くされた人物や風景には第一想像の余地が無い。想像の余地が無ければ心には左程残らない。心に残らなければ、心は何時迄も空虚な儘である。
 折角皆揃って心が空虚成らば、ここ等で一つ奮発して埋めて遣りたいものである。私は常々そう思い乍、日々文章を書いて居る。
最後に引用を以て結びとする。

文芸は単なる技術ではありません。人格のない作家の作物は、卑近なる理想、もしくは、理想なき内容を与えるのみだからして、感化力を及ぼす力もきわめて微弱であります。偉大なる人格を発揮するために技術を使って、此れを他の頭上に浴びせかけた時、始めて文芸の効果は炳焉として末代までも輝き渡るのであります。輝き渡るとは何も作家の名前が伝わるとか、世間からわいわい騒がれると云う意味で云うのではありません。作家の偉大なる人格が、読者、観者もしくは聴者の心に染み渡って、その血となり肉となって彼等の子々孫々まで伝わるという意味であります。文芸に従事するものは、この意味で後世に伝わらなくては、伝わる甲斐がないのであります。

同上




 

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