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Never Rarely Sometimes Always ~邦題と日本語圏~

注:当記事は、私の鑑賞した映画に関するもので、ネタバレマシマシでお送りするものです。ネタバレ回避をご希望の方は、鑑賞後にお読みになられることをお勧めします。映画館でも上映中ですし、英語版ならDVDも既に出ているようです。

映画館を出て一度然るべき絶望を味わい、その後二度、無いに越したことはない絶望を味わった。『Never Rarely Sometimes Always(邦題:17歳の瞳に映る世界)』を観た後のことだ。映画自体は素晴らしいものだった。余白、残余が多分に含まれていた。本編では主人公オータムの周囲の状況がいかなるものなのかが、少ないシーンで的確に描かれており、描かれない様々なことに対して想像力を掻き立てるものだったのだ。

話の流れをごくごく簡潔にさらうと、望まない妊娠をしたオータムが、両親の同意なく中絶手術を受けられないペンシルベニア州から同意の不要なNY州へ中絶手術を受けに行き、ペンシルベニア州の地元まで戻ってくるというものだ。ざっくりしすぎているかしら。

一度目 然るべき絶望

オータムは学校に通いながらバイトをしている。が、学校のシーンはほとんど描かれない。冒頭のライブ(学芸会?) がわずかに出てくるのみだ。オータムが歌っている途中で、オータムをメス犬、あばずれ呼ばわりする同級生がいる。ライブ後に加わるグループがなく、家族といるところを見るに、友人がいないようだが、以後、学校のシーンが描かれることはないので、それ以上のことはわからない。

オータムは妊娠していることに気づくわけだが、妊娠する原因を作ったのが誰なのか(あるいは後にNYのカウンセリングの場でわかる情報を先取りすれば、オータムに望まないセックスを迫ったのは誰なのか)といったことは、わからない。ライブ中にメス犬、あばずれ呼ばわりした同級生なのか、父親なのか、はたまた明示的には出てこない人間なのか、決定的なことは言えない。後述するが、スクリーンを前にする人々は、野次馬根性からそういうことが気になったとしても、そうしたことを知る必要はない、ということなのかもしれない。いや、これは語弊のある言い方かもしれない。誰が原因で妊娠したのであれ、中絶の権利は保障されるべきだろう、という方がより近いかもしれない。ともあれ「メス犬」呼ばわりする野次を誰も止めようとしないし、「メス犬」「あばずれ」呼ばわりされたオータムを気遣う人もいない、ということだ。

ライブ後、家族といる場面では、「思春期の娘は難しい」と聞こえるように言って、父親は向こうから関りを拒む。オータムの母親に求められて、無理やり褒めるような素振りを見せるだけ。家では家で、父親は雌の犬と戯れながら「メス犬」という言葉を口にする。オータムが同級生からかけられたのと同じような言葉を、だ。

バイト先のスーパーでは、ドル紙幣を詰めた袋をカウンターごしにマネージャーに渡すとき、マネージャーはオータムといとこの手を順に取り、手の甲にキスをする、という性暴力をはたらいている。この描写は一度ならず複数回描かれている。

このように「メス犬」、「あばずれ」というセリフとバイト先での性暴力は反復されており、進行上重要な意味を持っていると考えてよいだろう。映画前半に通底しているのは、端的に言ってクソみたいな生活が繰り返されているということだ。望まない妊娠がなくとも、性暴力や尊厳を傷つける発言、言動が、生活に満ち満ちているわけだ。それに、いとこのスカイラーを別にすれば、これといって友達もいない。誰もこの苦しみを理解してくれないし、誰もこの苦しみを解決してくれない(とオータムは思っているし、実際そうなのだろう)。それゆえか、オータムは不眠に悩んでいる。

きわめつけは、地元ペンシルべニアのクリニックのスタッフである。セルフチェックで陽性と出るや、妊娠のすばらしさについて触れ、産んで自分で育てるか、養子縁組をするか、の二択しかないかのような発言をする。エコー画像から目を背けるオータムの姿が印象的だ。スタッフによれば、オータムは妊娠10週目なのだという。「産むかどうか決めていない」と口にするや否や、中絶がいかに悪なのかということを説くビデオを見せる。しかもペンシルベニア州では、中絶に両親の同意が必要なのだ。オータムは作中で一貫して、親に知られることなく中絶することを望んでいた。

オータムはそんな中にあって、クリニックのスタッフが役に立たない、と早々に見切りをつける。誰も頼る人のいないオータムは、Web上でかじった民間療法をもとに、一人で中絶を試みる。ビタミン剤を大量に飲んで、お腹を殴るなど(NYに行ったときには、殴った跡は痣になっていた)。中絶に成功することはなく、いとこのスカイラーと並んでスーパーでレジ打ちをしているとき、オータムにつわりの症状が出る。そこでスカイラーはオータムの妊娠に気づく。スカイラーは、バイト先のスーパーの金を数百ドル盗み、二人はNYでの中絶手術を受けに行く。

当初日帰りで帰ってくるつもりが、NYでの精密検査でオータムは妊娠16週目であることが分かる。初日のヘルスセンターでは16週目の中絶手術はできない、と言われ、二日目のヘルスセンターでは16週目の手術は日帰りではできない、と言われ。こうしてNY滞在が一日、また一日と伸びていく。その間、オータムとスカイラーは泊まる宿の当ても金もなく、そのことを誰にも打ち明けることなく、NYの街を二人放浪して二夜を明かす。

一日目で訪れたヘルスセンターで次のセンターを紹介すると言われた日の夜、街を放浪したのは致し方ないかもしれない。しかし、二日目で訪れたヘルスセンターで宿泊所の支援の申し出を受けるもオータムはそれを拒む。何故申し出を拒んだのか、ここまでくれば明らかだろう。オータムは、人への頼り方を知らないのだ。ペンシルべニアの地元では、頼れる人など誰もいないし、事実他人に頼ったことなど無いのだろう。スカイラーが気づいてくれなければ、またスカイラーがお金を用立ててくれなければ、旅にも出られなかったのではないだろうか。

また原題のNever Rarely Sometimes Alwaysについても触れておかねばなるまい。これは二日目に訪れたヘルスセンターで、手術に当たってのカウンセリングで提示される質問に答えるための四択だ。パートナーが避妊を拒否することはあったか、性行為を強制されたことはあったか、等々、中絶を強制されていないか、手術を受ける人間の身に危険が無いかを確認するための質問が並ぶ。手術を受ける人のプライバシーを守るために四択になっているそうな。オータムはカウンセリングの途中から回答が難しくなり、泣き出してしまう。そこで、オータムが望まない性行為を強要されたことが示される。カウンセラーは話したくなった時にいつでも話してくれるよう、連絡先を渡す。が、オータムがカウンセラーに連絡する日は、あるいは永遠に、少なくとも近々には来ないのではないか、と思う。人への助けの求め方を知らないのだから。

人への助けの求め方がわからないオータムは、NYに連れてきてくれたスカイラーに対して冷淡だ。というか、オータムなりに何がしか考えているのかもしれないが、それをスカイラーに、他人に伝えるのがかなり苦手なように思われる。二日目に訪れたヘルスセンターで、中絶手術の予約金を支払って、財布の中身を空にしておきながら(帰りのバス代もまだ払えていないのだ)、いとこのスカイラーに「帰っていい」などと言うのである。帰るに帰れなくなったオータムたちは、スカイラーの機転で、偶然行きのバスで同席し、偶然NY再会した男ジャスパーから売春なのか売春でないのかよくわからない形で、お金を借りる。ダウンタウンに行こうと誘われるも「行って良い」と言って、自分は荷物を見ることにし、スカイラーをジャスパーと行かせてしまう。バスの中で連絡先を交換したのを見て「連絡しないように」と言っておきながらである。オータムもオータムで、二人がいなくなったところで、荷物を持ったまま外、NYの街を散歩して戻ってくる。するとスカイラーがジャスパーとキスをしているではないか。しかしオータムは割って入るでもなく、キスをしているスカイラーの手を握るだけ。

オータムが嫌がっていたジャスパーがいとこのスカイラーとくっついていたのは、オータムのせいなのだが、二人をどうにかしようという様子もない。もっともそれはスカイラーの問題なのだが、だとすれば最初からスカイラーの問題なのだ。で、初めは「あんな奴と関わるな」と言っておいて、二人がキスしているところを見たら、喜ぶでもなく否定的見解を示すでもなく、何も言わなくなってしまう。

どう考えてもオータムは成長しているようには思われないし、人に助けを求める力を手にしたようには思われない。何なら、オータムは元々、地元の医者はあてにならないとか、ライブ中に自分をメス犬、あばずれ呼ばわりした同級生に水をかけるとか、それぐらいには強いのだ。

多少、オータムのスカイラーに対する加害性を糾弾しているように受け取られるかもしれないが、その意図はない事を断っておきたい。ただ、人に助けを求められず、スカイラーの力に頼った挙句、スカイラーの身を危険にさらしたことは事実である。いかに成長していないかを証し立てるものとして提示したにすぎないということを断っておく。

延々いかに彼女たちが成長していないかを探っておいて、話をひっくり返すようだが、彼女たちは成長する必要などないのだ。彼女たちが成長する必要がある、あるいは成長が好ましいという考えを抱いている人がいるなら、そうした考え自体が誤りだということを認識すべきだろう。

性暴力で傷ついた人が、心の整理もつかないうちから、加害者や社会と戦う必要はなし、仮にこの映画を成長譚として回収しようとする人がいるなら、「性暴力を笑って受け流せるようになる振る舞いを身につけよう」とか、「性暴力という不正と戦えるようになろう」とか言っているのと大差ない。そういうのは納得いかないなりにも、立ち上がる力がある人がやればいいのであって、生傷のオータムがやらなければならないことではないし、オータムにそうした力を見出している人がいるのだとすれば、それこそ暴力的では無いだろうか。もっともオータムがそれを望んでいるのだ、とする根拠があるのであれば話は変わってくるが、今のところ私の足りない頭では発見できなかった。

繰り返しになるが、悪いのは望まない妊娠をした17歳のオータムといとこのスカイラーの方ではなく、オータムが中絶手術を親に知られずに受けることのために、二人にNYへの旅を強いる世界の方なのだ。
勿論そこでは、男性による性差別が介在している。その点は拭い去ることができない。オータムを妊娠させた人はどこへ行ったのだろうか、オータムに望まない性行為を迫った人が法の裁きを受けない社会は許しがたい等々の批判を投げかけることはできよう。

しかし、Never Rarely Sometimes Alwaysが批判したかった映画の登場人物は、果たしてそれだけなのだろうか。役に立たないとして助けを求めるのをやめた地元ペンシルベニア州のクリニックの女性スタッフ、電話で助けを求めかけてやはり止めた母(もっともここで母だけを糾弾することの問題性は大いにある)、おそらくオータムが近々には性暴力のことを話さないであろうカウンセラーにも批判の矛先は向けられているのではないか。助けてくれない世界へ、あるいは助けを求めるという手段を奪った世界へと向けられているのではないか。

そしてオータムを助けてくれなかった世界は本質的に何も変わらないまま、またオータムはまるで成長しないまま、元居たペンシルベニアへと戻っていくのである。

なんて救いがない映画なのだろうという絶望を味わって、映画館を後にした。けれどこれは必要な絶望であったと思う。世界はそうやすやすと変わらないのである。オータムが中絶手術を受けたら、世界がバラ色になるなどということはない。物語としては成立するかもしれないが、日常とはそういうものではない。自分を傷つけたあるいは自分が傷つけた人間と暮らしていかざるを得なかったり、一度傷ついた自分の苦しみは住む場所を変えても本質的には何も変わらなかったり、といったものが日常なのだ。その点、Never Rarely Sometimes Alwaysは日常を、日常の無意味さを否応なくえぐり出している。しかもNYからの帰路で映画は終わるため、オータムが帰っていくことになる日常は何ら描かれることがない。語られないことによって、日常の無意味さ、世界の変わらなさに対する絶望はより深いものとなる。

繰り返しになるが、これは必要な絶望であったと思う。世界は本質的に無意味であって、意味付けは作り手にせよ、受け手にせよ人の手で後からやってくるものに過ぎない。いずれにせよ、無意味な世界に無理やり意味付けをすることの方が暴力的だと言える。そうしたことを思い起こさせてくれるという点で、すぐれた映画であったし、迫真性があったし、何より鑑賞者に寄りそうものであったろう。変わらない世界に暮らしていることを認めるところからしか、世界をどうにかして変えようとか、現状に問題があるとかといった指摘はできようがない(オータムがこの後、今までのことなどすべてなかったかのように明るい生活を送っていたら、望まない妊娠に直面し、中絶手術を受けるにあたって、不当な扱いを受けたという話が成長に必須の要素だったという話になりかねない)。

だがその後無いに越したことはない絶望が待っていた。一度目は映画館で買ったパンフレットを開いたとき。二度目は「17歳の瞳に映る世界」の公式webサイトを見に行ったとき。

無いに越したことはない絶望 パンフレット編

パンフレットを買って開いたとき、某コラムニストの映画評が目に付いた。見出しが「少女たちが身体と内面を取り戻すまでの旅」だったのである。視界に暗雲がたちこめる。読み進めていくと「17歳の瞳に映る世界」は、「この映画で描かれる旅は彼女たちが自分の身体を、そして内面を取り戻すまでの戦いの記録で、だからこそ冒険的な側面があり、だからこそ青春映画なのである」とする記述があった。これが一度目だった。自分と違う意見を見つけたぐらいで、絶望などと表現するというのは、度が過ぎるような気もするが、あえて絶望と言わせてもらおう。それが私の偽らざる感想だったから。
この映画は、見かけ上冒険の体を採っている青春映画、成長物語が失敗してしまう、というものではなかったか。このコラムニストは、その気があるのかどうかは知らないが、中絶を、中絶のために隣のNY州まで二人がしなければならなかった旅を美談に回収していないか。中絶と中絶のための旅(オータムを取り巻く制度が、世界が、強いた旅)がオータムの成長に寄与しているようには思われないし、仮に寄与していたとしても、そんな成長はない方がいいに決まっている。

かほどに、人間は何でもかんでも――単線的な美談として回収できなさそうに見えるものでも――単線的な美談に回収するのが好きな生き物なのだろうか、と思ってしまった。直ちに思い直した。人間は明らかに主語が大きいだろうと。きっとこのコラムニストは少数派だろうと。一人抜き出してきて、他の人の性質まで云々言う方が、暴力的だろうと。

無いに越したことはない絶望 日本語版公式webサイト編

そもそも公式webサイトを見に行くのは気が進まなかった。第一、映画を見る前からSNSの前情報もあって、「17歳の瞳に映る世界」という題名があまり気に入らなかった。「17歳の物知らぬ無垢な少女が、望まない妊娠をしてしまい、中絶手術に追い込まれる」というスティグマを付けるものではなかろうか、17歳の方を問題化しているのではないか、という悪い予感がしていた。映画を見終わってからは「17歳を取り巻く世界」の間違いだろう、と一緒に観に行った人が言っていた。もっともだと思う。スティグマを付けるのみならず、オータムを苦しめ、助けを求めることを封じている世界へと、批判を向けないようにする効果が、この邦題にはある。

ただ、こういう文章を書き始め、もうコラムニスト一人槍玉にあげてしまったわけである。コラムニスト一人個人(と、そういうコラムの掲載をよしとしているパンフレット作製に関わった人間たち)が悪いのか、他にも同じように成長譚への回収を行っている人間がいるのか、気になるというものである。
恐る恐る開くブラウザで待っていたのは案の定二度目の不要な絶望である。「映画の彼女たちや、あの時の自分にも『もっと自分を大切にして』と言ってあげたい」だの、「心にすっと寄り添う女性たちの姿に人間性を学ぶ」だの、私とは相容れない「絶賛の声」がいくらか見られた。どうも彼女ら彼らの間では、オータムとスカイラーが取り組まないといけない問題に関する物語、あるいは暖かい女性たちのヒューマンドラマ等々になっているらしい。一つ一つ取り上げても疲れるだけなのでここでやめるが、どうにもうんざりしたのは「どうもコラムニスト一人のせいではないらしい」ということ、日本語圏からNever Rarely Sometimes Alwaysに関わった人達がちらほら「17歳のオータムに焦点化し、オータムあるいはスカイラーを取り巻く世界の問題を落としてしまう」というコラムニストと同じ問題に陥ったらしい、ということだった。もともと怪しいな、と思っていたわけだから、確かめに行ったに過ぎないのではないか、という説ももっともだが。

もっともいくらか見られたのであって、あそこにコメントを載せた人を十把一絡げに批判するつもりもない。例えば助産師/性教育youtuberのシオリーヌ氏は「近くに頼れる大人が一人いたら、彼女たちは旅に出る必要すらなかったかもしれない。社会の、大人の責任を問われる作品でした。」とのコメントを残している。絶望は言い過ぎだったかもしれない。ただwebサイトに並ぶ日本語のコメントは、日本語圏の人々の意見を表していると言いうるのではないか。大体、中絶に反対するようなコメントは載せられていなかった。だからといって皆が賛成だというわけでもなかろうが、それほど中絶に強い嫌悪感を抱く人間はいないのだろう。そういう集団でああした様相だというわけだ。まあ、みんながみんな似たり寄ったりの意見だったらそれはそれで空恐ろしいものだろうが。

以上、二つの無いに越したことはない絶望を見てきた。私は思うのだ。これでは日本語圏では、リプロダクティブヘルス/ライツもへったくれもないではないか、と。思い返せば、私は日本語圏でのこれからの道のり(いわゆる搔爬法メインの中絶から、薬剤による中絶法の認可、真空吸引法の普及、中絶の無料化等が目下挙げられるだろうか)の長さに絶望した。

日本語圏での話ばかりに気を取られ、アメリカ国内の事情、キリスト教福音派など中絶に宗教上の理由から反対する人々の存在やそれに伴う中絶の政治問題化、中絶手術を行う医師の殺害、ヘルスセンターへの襲撃といったテロ行為の話については、触れる余裕がなかった。というか、それは私がやらなくても既にたくさん学術的な研究がされている領域であって、少し調べればそれらしい論文はごろごろ出てくる。それにパンフレットにも先ほど槍玉にあげたコラムニストとは違う人が、記事を書いている、ということで書かなかった。

それよりも『Never Rarely Sometimes Always』がいかに救いのない映画であるかということ、また同作の日本語字幕版上映に当たって、日本語圏の人間が揃いも揃って強引な成長譚への回収を図ろうとしたということの不当性を指摘することに注力することを記すことの方が、私のやるべきことではないかと考えたのだ。あなたたちの「青春映画症候群」、「症候群」の結果としての社会問題の隠蔽や17歳の二人への焦点化に対して、たとえ「罹患者」当人たちの耳に届かなかったとしても、ささやかながら抵抗した、という証拠を残すこと。そうした暴力に対して沈黙しなかった、という証拠を残すこと、が今の私にできる精一杯だから。

日本語圏の業界が「青春映画の失敗」をありのままに受け止められる日が来るまで、折に触れてしつこく追い回していこうと思う。この「症候群」一つ乗り越えられないようでは、その先も続かないのだ。上記のような暴力行使を良しとしてしまうと、折に触れて出てくるような「被害者が我慢すれば、皆の和が乱されずに済む。殊更問題化する奴は集団の和を乱す人間だ」というような言説も甘んじて受け入れざるを得なくなってしまうのだ。

結果として、実りなき持久戦になるかもしれない。でも気づいたからには、やっておきたいというものだ。後人の役に立つかどうかは知らない。そういうことは後になって分かるものだから。誰の役にも立たないのなら一種の暇つぶしに過ぎないのかもしれないが、それでいい。私なりの精一杯で暇つぶしにいそしむこととする。

それにしてもNever Rarely Sometimes Alwaysのエリザ・ヒットマン監督、他の作品も「青春物語の失敗」、「成長の失敗」について描いているようで、とても性癖に刺さりますね。今度過去作が公開される映画館があるらしく、今回一緒に行った人が過去作も一緒に観たそうな目で僕のことを見てくる、という一幕が今週あった。ヒットマン監督作品絡みの記事を近々私がもう一本出すやもしれません。今後をお楽しみに。それではこの辺で。

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