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試論:ジェンダーの練習問題

僕の知り合いが、女性を理解するためにということでネットで女性用の服を買って、下着も買って、化粧道具も買って、YouTubeを見ながら化粧を頑張ってみたらしい。とても面白かったらしいが、そのなかで、女性は社会的に常に見られ続ける立場にあることや、身体的な仕草、特に足の置き場に大きな制限があること、それから、今まで女性に向けていた視線が、ほとんどの場合不快にさせるような目線であったのではないかということに気づいたらしい。
そのときにジェンダーという意味において、女性が社会的に求められている役割や、見られるということの圧力を強く自覚させられ、これはしんどいなと思ったようだ。

しかし、それは女性が社会に出る上で、女性という身体にまとわりついている生物学的問題ではなく、社会的に大きく構築されたものであるという点において、おそらく多くの女性がうんざりしているのではないだろうか?きっと過半数を軽く上回る女性が、女性であることの社会的な圧力、抑圧、求められるものにうんざりしていると思われる。(統計は見ていないが、推測でも明らかにそう思われる。)

さて、そのような社会的しんどさのなかで、ならば「女性に押しつけられる空気をなくしていこう。」というふうにする。ことはそんなに単純ではない。30代の僕より1世代2世代上の男性たちは、そのような空気を蔓延させ続けている人が多い世代であると思われるが、そのような人たちを変えることはまずできない。悲しいことに。ならばどうするか?

この問題は、みんなで考えなければならない。このような、社会に完全に蔓延して、もはやほとんど人に無理を強いているような考え方やシステムをどうにかする方法は、なかなか難しい。こっちを切ればあっちに問題が出てくるからやっぱりやめようとか、いろんなシステム、個人の信念、経済、いろんなものの裏にジェンダーをめぐる、たくさんの人を苦しめ傷つける古い考えは潜んでいて、しらみつぶしにやっていくしかないように見えるし、実際そうだ。

結局個人でできることは、そのような裏に潜んでいるように見えて、世の中の無意識に共有されてしまった悪き行動規範やルールみたいなもの、それにそっぽを向くことから生じる道徳的な罪悪感のようなもののスイッチというかプラグというか、配線のようなものを一つ一つ、個人の主体的な倫理性でもって切っていくしかない。「こういうことは人を苦しめるから言うのをやめよう」という個人的な意識からしか、始めることができない。男性らしさや女性らしさというようなジェンダー規範の鎖、それを少しずつ解いたり断ち切ったりして。それを自分自身の内側でやっていくしかない。そして、余計な結び目を自分や周り、そして社会に対して再び作らないようにするしかない。

パートナーシップに関するあらゆる制度もおそらくもう変わっていく時代に徐々に突入していくだろう。今はあまりそうではないが、昔はお嫁さんとして女の人は決死の覚悟で旦那の家に住みこむことになっていた。女性はこの制度によってめちゃくちゃに我慢を強いられる環境に置かれる場合もあったとおもわれる。場合によっては姑にいじめられたというのは話によく聞く(実母からも少しきいたが。。。)。男性がいついかなる時も妻を守ってくれればよいかもしれない。けれど、必ずしもそうならないとき、お嫁さんはどんなにしんどかったろうかと思う。周りは誰も助けてくれないといった状況であった時、どんな気持ちで周りと接しただろうか。自分の相手にそんな苦しい思いをさせたくない。身も心も削れていくだろう。そんな光景を見たくもない。
もちろんそのような制度や慣習は良いこともたくさんあっただろうけれども、「〇〇はこうするもの」という規範に従わされる場に男性も女性も置かれてしまうことがもう時代に合わなくなっていると思う。もちろん今はそのような慣習の縛りはかなり薄くなっているけれども。だけれどそんな露骨な慣習でなくても、いろんな慣習が変な縛りをつけていることは枚挙にいとまがないだろう。


結局はジェンダー規範の圧力のようなものをやめていくために、古い慣習は徐々に解体していくことが絶対に必要だ。多すぎるけど。多すぎてもだ。もちろん僕が社会の仕組みに全く従わずに生きていくことは難しいし、そうできない場合も多々あるけれども。話は少しズレるが、選択的夫婦別姓は導入しなければいけないし、同性婚の結婚も法的にOKにしないといけない。慣習の解体や制度の見直しは急務であると思う。同性カップルが、海外でとても幸せそうに挙式しているのをYoutubeなどで見ると、日本という国のあまりの柔軟性のなさが情けなくなってくる。

さて、、最初の前置きが長いし、そもそも何もまとまっていないのだが、、本題に行こう。

女性の生きづらさというところに焦点が当たったときに、それは同時的に男性の生きづらさにも光を当てなきゃいけないのじゃないか?という問いは当然のように生じてくる。だからこれから以下に書くのは男性のつらさである。僕が体験していること、というよりも横から見て感じるつらさである。

例えば、40-60代くらいの男性、いわゆる“おっさん”に入ってしまう男性は女性に触れてはならないことになっている。逆、つまりおばちゃん(表現が雑で申し訳ないが)は男性に触れていいことになっている。もし性的な意味も何にもなく例えば自然に励ます意味で肩に触れるという行為すらも、男性には非常に分厚い壁が社会的に存在していることになっているし、そのような行為はもれなく、とまでは言わないにしても多くの場合、セクハラ行為に該当することになってしまう。

また、何か困ったことがあったとき、その困りごとを、優先的に助けてもらえるのは、子ども、若い人、女性、ということになっている。一番遠回しにされるのはいつも“おっさん”である。

男性学で有名な田中俊之先生は、駅の自転車置き場で自転車を停めたり出したりする光景をずっと観察して、どのような立場の人が助けを得やすいか観察してデータをとったらしい。子どもや女性はいろんな人から助けてもらえていたようだが、上記で言うようなおっさんに該当する男性は、明らかに自転車を出すのに手こずって困っていても誰も助けてくれず、自分一人で自転車を停めたり出したりしていたらしい。つまりそれは、「おっさんは助けなくて構わない」という社会的無意識が形成されているということだ。そして、それが男性の生きづらさ、辛さではなかろうか。自然に孤立、孤独というところに追いやられる、“助けなくていい存在”にカウントされる。本当は助けを必要としている人ですら、無意識にその人たちの苦しみは社会によって“ないことにされている”。

さて、ほかにも。たとえば過労を強いられて、体を壊した人がいると、会社のなかで噂になったという場面を思い浮かべてもらいたい。その光景は無意識的に多くの場合、壮年期くらいの男性が浮かばないだろうか?40~60代の男性と過労は社会的に結びつきの強いイメージになっている。つまりは、過労を強いられるのはそのような年齢の"男性"であるということだ。全員がそのようなイメージを浮かべたわけではないとしても、多くの人がそのようなイメージをごくごく自然に浮かべてしまうだろう。


挙句の果てには、「女性は気持ちや想いを聞いてもらいたい、男性は問題解決型だから、気持ちや想いよりも解決や提案を必要とする。」というような言説を聞いたことがあるだろう。この話は本当によく聞く決まり文句のようだ。その言葉によって、男性の辛い気持ちや想いは、ほとんどないことにされる。若い男性や子供ならともあれ、おっさんになっていく男性たちは徐々に自分の気持ちや想いは無意識に"ないこと"にされ、周りからの関心も集められず、女性が気持ちや想いを伝え合って、お互いに励まし合っている光景の横で、苦しみや辛さを打ち明ける場所にはほとんど恵まれない。もしそのようなことを口にしたら暗い人、女々しい人、頼りない人というレッテルを貼られる可能性がある。そして、気持ちを伝えてはならないのだろうと無意識的に感じて、言わずもがなで気づけば孤立する。人によっては、自分は必要とされていない誰もわかってくれないと感じて、自殺を選ぶこともある。自殺を完遂する確率が高いのはいつも男性だ。


“男女関係なく”、そもそも人間には問題解決が必要なときもあると同時に、気持ちや想いの吐露も必要なときがある。それが性別によってもし分断されてしまうならば、もう片方の必要性、つまりここでは男性の気持ちや想いのことになるが、それらは傍に追いやられ、抑圧されていくのだ。こんなことはあまりあって良いことではない。そう思わないだろうか?女性学が男女の公平性を謳うように、男性の立場からも男女の公平性をきちんと言わなければならない。なぜなら、男性は自分の生きづらさそれ自体を自覚すらせず、孤立は自然な過程のように体験している。そして、それは男性だから仕方のないことだと、女性以上に諦めて暮らしていることも多い。

特に僕の1世代以上前の男性は、仕事(勤めること)から降りることが叶わなかった。女性は、家庭に入る、子どもを産み育てるという区切りのなかで仕事から降りるという選択が可能である。あるいは再復帰する際に、時短やパートという仕事上の選択肢が用意されている。男性にももちろん制度上は用意されているのかもしれないが、社会的にはその選択肢は基本的に用意されていない。勤めるのであれば、特別な会社でない限り、正社員であることを選ぶことが暗黙裡に前提とされている。もちろん選択権がなく派遣やアルバイトという勤務体系にならざるを得ない人も世のなかにはたくさんおり、不安定な収入を余儀なくされている人はとてもたくさんいる。しかし、その話とこの話はまた別に考える必要がある。私が言いたいことは、男性は、仕事はそんなに熱心にしたくない、ほかのことをして生きていきたいということで、勤務を短くして働くという道は、極めて選択が難しいということを言いたいのだ。そして、勤務を短くして働く人は、病気を患っている人、特別な家庭的事情がある人など、ネガティブな原因によってのみ許可されていることになっている。


さて、ではどうするか。冒頭に書いたことなのだ。男性は仕事をして当たり前、という考えをやめるしかない。例えば働かずに女性に養ってもらっている男性に対して、“ヒモ”という言葉がある。しかしそのような人を蔑む言葉を使うのをやめるしかない。そしてその生き方も一つの生き方であると並列に置く練習をするのだ。心の中で。

そしてもう一つ大事なことが浮かんだ。イクメンというふざけた言葉をこれ以上使うな。育児をする男性は"父親"である。この言葉は育児しないことが普通であるというようなことが前提とされているような極めて不愉快な言葉だと思う。育児は、夫婦が協力してすることではないか? 同じような文脈で言葉をつくるなら"イクジョ"などとなるだろうか?並列に並べれば並べるほど、この言葉のいびつさが際立つ。

ジェンダーの練習問題とは、性別によって苦しめられるようなおかしな価値観を流布するような、社会的言説の絶えざる相対化であり、無効化である。苦しみばかり生む言説を皆で一つ一つやめるために。やめてやめてやめていって、苦しみを一つ一つなくしていく。一つ一つ、燻り続けるものの熱を冷ますように。

そんなことしたって何も変わらない。確かにそのような言葉は一理あるかもしれない? いやいや、そんなことはないのだ。このような草の根的な活動からしか、苦しみを生む言説は無くしていけないのだ。テレビやらメディアやらで盛んにジェンダーの苦しみを生む発言をやめましょうなどと、あれこれと言うことだけで、この世界やこの社会の縛りつけがなくなるわけでは決してない。苦しむ人が一人でも減るために“私はやめよう”という決意からあらゆることは始まる。そして、その決意を始まりとしてしか、制度や政治には結びつかない。
『私はやめようキャンペーン』。
そういうことなのだ。それが"練習問題"なのだ。

そういう意味において、ジェンダーの練習問題とは、自分の内側の問題になっていくのだと思う。僕はこの文章を書く上で、敢えて男性のジェンダー的な苦しみについて書いてみた。女性にも立場は違えどジェンダー的な苦しみがたくさん存在する。それらも一つ一つ、やめていこう。
そして、どんな性別に生まれても、過度な苦しい思いをしなくていいようにしていこう。そんなことを全世界で約束しないだろうか? そんな思いに駆られる。

僕はまだ30だ。だからきっとこの男性として生きることのジェンダーとしての苦しみをあと十数年したら徐々に感じてしまうのかもしれない。そうならないでほしい。そうならない世の中であってほしい。一人でも多くの人が私はやめようと思ってほしい。人間だから失敗することもある。何度失敗してもいいのだ。それでも構わないから、『私はやめよう』と、思って、もう無駄でしかない社会の慣習はやめていくために、実行しよう。そして、人を苦しめる言葉ではなく、人がほっとするような言葉が新しく生まれてくることを心から願う。

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