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めづらしきもの

能を完成させた世阿弥は、その「風姿花伝」のなかでこう言っています。

花と面白きとめづらしきと、これ三つは同じ心なり

芸術的感動(花)と、おもしろさ、珍しさは、同じものだという意味です。大雑把に言い換えれば、新鮮(めづらしき)に見えないものに感動はないということです。

写真でもまったく同じことが言えて、十年くらい前までは新鮮に見えていたある土地の風景写真が、もうすっかり写真の常套句のようになってしまっていることがよくあります。黄金比の構図で撮られた女性モデルなどもしかり。

アート写真では、「めづらしき」を得るために、コンセプトを重視したりするようになっています。絵画やクラシック音楽が通ってきた道とまったく一緒です。

ところで最近、それと似たことが、写真だけでなくカメラにも言えるのではないかとも感じています。

デジタルカメラの技術は今でもどんどん進んでいます。しかし、もしかしたらカメラというハードウェアの形態自体が、近年の保守的なデザイン傾向も手伝って、前世紀の道具に見えているのではないかということです。言ってみれば、カメラがガラケーのように見えているのではないかということ。自動車なんかも同じなのかもしれません。

多くの人が写真撮影にスマートフォンを使うのは、便利さももちろんあるけれど、そっちのほうがワクワクする「今の」機械だからということも、多少なりともあるのではないでしょうか。

どの時代でも、新しい技術だけでなく、見たこともないデザイン、思いもよらない発想、どう使うかわからないけどすごそうな道具が、人々の心をとらえてきました。

はたして、私たちが使っているカメラ、そしてそれを使って撮っている私たちの写真は「めづらしき」ものでしょうか。

安達ロベルト

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