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受賞作品ホームレスについて①~自分かもしれない誰かの高みの見物~

ホームレスについて書いたある記事が問題になっています。

noteに投稿した記事をエントリーして賞をとると、cakesというサイトに連載として掲載されるというコンテストにエントリーされた記事です。cakesはnoteの上位互換的な存在で、noteが個人ブログだとすると、cakesは公のメディアという立ち位置の違いがあると思います。



受賞作品のnoteを抜粋すると

ホームレスの生活に興味を持ち、その生活を取材
今回の記事では、どんな食事をしているかにフォーカス
自分たちの生活とは違い倹約や自己調達が当たり前の世界
そこに著者は異世界にいるようなユートピアを見出し、魅力を感じる

”河川敷を訪問している間の時間がまるで異世界にいるような「ユートピア性」を見せてくれる機会が、たまらなく刺激的な魅力”

こんなところです。

さて、このnoteの記事はただいまtwitterで大炎上しています。

大量消費の自分たちの生活を見直すような視点をくれた
ホームレスの生活とその取材に感銘を受ける人
社会的な問題であるホームレスをユートピアと表現する
その当事者意識のなさを非難する人

みなさんは、記事を読んで、ご自身をどちらのスタンスだと思いましたか?

私は後者なんですが、といっても、noteという個人ブログ的なところに、自分の意見や感想をどう書こうが自由だと思うんです。

著者自身、今回炎上しているような悪気があって書いてるわけじゃないことは読み取れますし、驚きとか感動とかピュアな人なんだろうなとも思いました。さらに、ホームレスの人々の生活内に入っていくためにいろんな方法を考えて実践したり、noteでの売り上げを食品提供したり、尊敬できる方です。軽快な文章も読みやすいです。


唯一の問題点は、cakesがお墨付き、賞をあげた経緯だと思います。
(cakesはつい先日、暴力に対する相談について「過剰な表現でオーバーに相談している」と返答した記事をのせて炎上しています。もう少し敏感に捉えてもいいような…)

受賞が問題となるのは「ホームレスと自分にきっちり線を引いている」ように思える部分があるからです。

賞を与えたcakes編集部の「違う世界の生き物に前向きな視点や気づきがある」と評価しているのもホームレスと自分たちに線を引いています。いつでも誰でもがなりうるのがホームレスという状態です。しかし自分たちには関係ない世界として描かれて、知恵や工夫による生活を評価しているという点に、すくなくとも編集部が気づくべきだったと思います。

私たちはホームレスときいて、清潔さや安定した生活を思い描くことはありません。その意味でこのnoteは「ホームレスの良い面」を私たちに教えてくれているようにも思えます。

綺麗に撮影された写真や、逆境の中でも笑顔で楽しそうな”おじさん”たち。軽快な語り口の著者のnoteを読めば、そこには明るい希望が感じ取れます。
「町で見かけるホームレスを汚らしいと思っていたけど今度からそんな風に思わないかも!」と前向きな気持ちを持つ人もいるのではないでしょうか。とても楽しそうで田舎の素敵なおうち訪問、みたいなんです。


そのことに、メディア機関として、評価して賞をあげることは、あまり精度が低いと思います。


ホームレスの方たちは、多くは望んでそうなったわけではありません。
貧困の状態から抜け出せず、生命の危機と隣り合わせで生きています。

記事の中に出てくる、どこかで見つけてきたお酢でつくる食事。そのお酢は安全なものかわかりません。しかし、必要なものは自分で調達するという倹約的な考え方ありだなぁ~と最終的にまとめられます。
他の記事では、薄着で寒くないの?と聞いたら「冬将軍がくる」と笑顔だったので意外と体が寒さに適応して大丈夫なのかなという記述もありました。

そんなわけありません。
安全でない食品を食べれば死ぬし、寒さで人は死にます。

ホームレスの方が笑顔で大丈夫と言う。
その笑顔に甘えて「へー意外となんとかなるもんだな」と思ってしまう。
それが公のメディア記事に値するとお墨付きをもらって大丈夫でしょうか。


この記事を最後まで読むとわかるのが、多くの人が持っている当事者意識のない「高みの見物」です。
自分がホームレスになるとは思ってもいない、社会のセーフティネットから外れることはないと確信しているからこそ、安全でない食事を毎日食べざるをえない状況でも「美味しい」と無邪気にいえて、寒さをしのげない環境に生きることを段々適応するのかなとのんびり考えています。

自分が明日、来月、来年・・・働き口がなくなり給料がもらえず、家族とばらばらになり、病気になり、住むところを失い、ホームレスになる可能性があるとは考えられていません。多くの人は、学があるから、今の会社は安泰だから、いざとなったら家族もいるし、さすがにホームレスにはならんだろう。と思っています。
今、河原で生活している”おじさん”も多くはそうだったはずです。

厳しい環境でも笑顔や工夫を忘れずに日々を生きているホームレスの人々には”強さ”があると思います。
しかし、その”強さ”に甘えて「これはこれでユートピアな暮らしだなぁ。日々の仕事に疲れてるとなんだか癒されるなぁ」と思うことが(どう思うのかは自由です!しかし)記事として多くの方に目に付くメディア連載を確約される賞を取る。何か方向がずれているように思います。

著者の思いは「彼らなりに一生懸命生きてる、変な目で見るのはやめよう」という前向きなメッセージだと思います。しかし著者自身が気づいていないように思うのです。彼らは、田舎の広大な土地で自給自足で山菜をとっているアットホームファミリーではありません。(ここが多くの人の勘違いなんだと思うんです)
しなくては、死んでしまうからそうしているのです。
たくさんの選択肢からそれを選んだわけではないはずです。
圧倒的な危機の中で生きているんです。
寒さもしのげず数時間後には死んでるかもしれない生活です。

社会のセーフティネットがしっかりあれば、暖かい家で問題なく暮らせる方法があれば、彼らはこの生活を選んだでしょうか?


一度ホームレスになると、住所がないために定期や長期の雇用にはつけず、なんとか日銭を稼いでもご飯だけですべてが終わってしまう。
そういう毎日の中に「ユートピア」を見出すのは、生きる気力を失わないすべとして、彼ら側の希望として、あるべきです。
安全圏から「意外とユートピアなとこあるじゃん!」と思ってしまうのは、所詮自分がホームレスになることはない、と思っている強者の発想です。


「俺はホームレスにはならない。でも日々の生活に疲れたらホームレスを見て癒されようと思う。ここに忘れかけたユートピアがある」
自分がホームレスになったとき、たまにくる”おじさん”にそういわれたら、どう思うんだろう・・・


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