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羊の瞞し

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残酷な運命に翻弄される、二世調律師の成長譚。物語はフィクションですが、楽器業界のリアルな裏話を交えながらお届けいたします。約22万文字の長編になります。
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羊の瞞し あらすじと目次

羊の瞞し あらすじと目次

【目次】第1章 MELANCHOLICな羊

(1)ファミレスにて〜プロローグに代えて〜
(2)ショールームにて
(3)地獄の審問
(4)釣堀
(5)ドイツのピアノ
(6)釣果
(7)騙すこと、騙されること

◉第1章のまとめ読みはこちらから(他サイト)

第2章 NOSTALGICな羊

(1)はじまりのノクターン
(2)家族のノクターン
(3)崩れゆくノクターン
(4)凋落のノクターン
(5)

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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(1)

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(1)

(1)ファミレスにて〜プロローグに代えて〜

「あのぉ、ブラインドを下ろして頂けますか?」

 ファミレスの窓際の席で隣席から女性に声を掛けられた時、松本響はコーヒーをチビチビと飲んでいた。
 嗜んでいた、とスマートな表現を用いたいのが本当のところだが、実際の行為は「味わう」という舌の快楽に比重は置かれておらず、また身体や脳の要求に応えた行動ですらなく、無為で機械的な「摂取作業」と化していたのだ。

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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(2)

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(2)

(2)ショールームにて

 松本響が勤める会社、「ピアノ専科」のショールームは、土足厳禁になっている。その為、来店した客に驚かれることも多い。確かに、ピアノのショールームとしては珍しい様式だろう。
 しかし、日本の住宅環境では、ピアノを設置する場所の殆んどが土足厳禁のはずだ。この事実を逆手に取り、「より家庭に近い環境で音を確認していただく為、敢えて土足厳禁にしている」……そう説明するように義務付け

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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(3)

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(3)

(3)地獄の審問

「次は……草薙君だ、やってみろ」
「はい」

 草薙清暙は、ピアノ専科に入社してまだ二ヶ月にも満たない新人だ。だが、新卒という意味ではない。年齢は二十代半ばで、少し前までは他社で営業をしていた男だ。
 ピアノ専科には、調律学校からの新卒者が入社することはまずない。業界での評判が悪過ぎる為、批判を恐れた全国の調律学校は、ピアノ専科への就職斡旋を自重しているのだ。なので、現在の社員

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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(4)

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(4)

(4)釣堀

 前日にGoogle Mapで下見した漆原宅を実際に訪れてみると、航空写真からの想像以上に、立派な大邸宅だった。門戸にある古びた厚い木製の表札には、「漆原良一」とだけ刻印されていた。事務員に貰ったデータを見ると、依頼者は六十代以上の欄にレ点が打たれている女性、漆原絹代様……おそらく、良一の妻と考えて間違いないだろう。
 アポの時間から二分過ぎるのを待ち、松本はインターフォンを鳴らした

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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(5)

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(5)

(5)ドイツのピアノ

 まだ、内心では完全に怒りが収まっていないであろう絹代だが、表向きは、平常モードまで鎮まっているように見受けられる。基本的に、怒りを爆発させる人の方が切り替えも早いことは、経験上、確信していた。
 逆に、怒りを抑えつつ、ネチネチと陰湿に文句や不満を口にする人の方が、質が悪いのだ。幸い、絹代は典型的な前者だ。まだ不平不満は解消し切っていないだろうが、松本は、彼女のことを容易に

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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(6)

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(6)

(6)釣果

 突然、声を荒立てた松本に、絹代は少し動揺すると同時に、松本がこのピアノのことを真剣に考えていると信じ込む様子が見て取れた。もちろん、松本はその効果を狙っていたのだが。
「でも、このピアノを貰っても、迷惑じゃないかって……」
「勘違いしないでください。酷いのはピアノじゃなくて、状態です。このピアノは、ものすごく価値のある素晴らしい楽器なんです。捨てるだなんて、そんな悲しいこと……今は

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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(7)

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(7)

(7)騙すこと、騙されること

 ピアノ専科の事務室に戻った松本は、真っ先に社長室へ向かい、報告に上がることにした。
 榊との面会は、特にこの数ヶ月は、気分が沈み足取りも重く苦痛でしかなかった。しかし、この時ばかりは、数ヶ月ぶりに胸を張って入室出来た。もちろん、これぐらいのことで、ここ数ヶ月の目も当てられないような惨めな結果を帳消しにしてくれるほど、甘い会社ではない。それでも、今朝の叱責を糧にして

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羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(1)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(1)

(1)はじまりのノクターン

 築七年の、小さな店舗付き住宅。
 豪華でも機能的でもなく、ましてやお洒落でもない平凡な中古物件だが、松本宗佑にとっては生活と仕事の拠点であり、誇らしい城だった。音楽教師でもある妻の美和と共に、コツコツと貯めた貯金を頭金にして、ようやく組めた住宅ローンで「城」を手に入れたのだ。
 一般的に、自営の調律師が自宅ローンを組もうと考えても、審査を通るのはかなり厳しいと言われ

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羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(2)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(2)

(2)家族のノクターン

 職人肌の宗佑には、新規顧客を開拓する営業スキルが致命的に欠けていた。しかしながら、高度な技術力は確固たる評価に繋がり、調律の継続率は90%以上という驚異的な数値を記録していた。
 独立した時の年間調律台数は、自営のボーダーとされる300台を少し割っていたのだが、宗佑の場合は継続的に修理の仕事が入っていた為、収入は十分に確保出来ていた。
 また、実施した修理の出来映えの良

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羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(3)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(3)

(3)崩れゆくノクターン

 家族三人で暮らす古い店舗付き住宅は、小学生の響にとっては楽園のようだった。学校から帰ると、毎日のように工房へ降りていき、父の作業を見学した。三年生になる頃には、念願の工具を手にし、簡単なお手伝いもやらせて貰えるようになった。
 中でも、響はフレームを取り外す作業が好きだった。弦やボルトを外したグランドピアノのフレームの三ヶ所にロープを結び、チェーンブロックで引き上げる

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羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(4)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(4)

(4)凋落のノクターン

 響が高校三年生の夏のこと。ある日の夜、松本家は珍しく親子三人で食卓を囲んでいた。おそらく、数週間振りのこと。いや、夕食に限ると、下手すれば数ヶ月振りかもしれない珍事だ。家族団らんとは程遠い冷め切った空気の中、それでも張り詰めた緊張感にはならないところが一応家族である所以かもしれない。
 余所余所しい雰囲気の中、宗佑は、何とか話題を探そうと模索しているようだった。反対に、

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羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(5)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(5)

(5)訣別のノクターン

 調律学校での響は、ズバ抜けて成績が良かった。
 もっとも、小学生の頃から父の工房で作業を手伝い、部品や工具の名称を覚え、アクションの構造を理解し、音やタッチの調整を目の当たりにしてきたのだ。更に言えば、高学年になる頃には、簡単な作業も熟すようになり、調律もユニゾンやオクターブを合わすぐらいは出来るようになっていた。つまり、同級生が二年間の学校生活で学ぶことの大半を、響は

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羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(6)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(6)

(6)最後のノクターン

 美和と宗佑は、協議の末、正式に離婚した。美和が家を出て、僅か五日後のことだ。離婚届を手に、荷物整理を兼ね一時的に帰ってきた美和は、妙にサバサバしていた。
 その晩、家族三人で淡々と話し合った。不思議と誰も感情的にならず、事務的な意見交換だけだ。
 美和の決意は固かった。慰謝料も財産分与もなし。もちろん、二十歳になり、就職も決まった響への養育費はなし。もっとも、学費は全額

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