見出し画像

エッセイ | 美・快と醜・不快の哲学

美の哲学

 哲学では、プラトンの時代から「美とは何か?」という問題を取り扱ってきた。何を最も美しいと思うかは、もちろん人によって異なる。しかし、「美しい!」と人々が思うものには「普遍性」がある。

 咲き誇る桜の花を見て美しい、富士山を見て美しいと誰もが思うものである。
桜の美しさと富士山の美しさはまるで異なるのに、「美しい」という言葉で表現できるのはなぜか?

 プラトンは「美のイデア」に私たちが憧れを持つからだと考えた。
 カントは、美を「目的のない合目的性」(Zweckmäβigkeit ohne Zweck)と表現した。桜は勝手に美しく咲いているだけだが、「あたかも人々を楽しませる目的があるかのように」(=合目的性)に美しく咲く。

 人々が「美」に憧れ、その美しさを何とか表現したいという欲望が「美学」という学問さえ生み出した。

 もちろん、美を研究することは価値のあることであり、また、美というものは人生に彩りを与えるものである。

 しかし、生きていく中で毎日のように私たちに突きつけられることは「美とは何か?」という問いではなく、「醜い!」「不快だ!」と問題ではないだろうか?

「醜や不快というものは人それぞれだよ」「主観の問題だよ」と多くの人々は言うが、桜や富士山の美しさと同じで、やはり「普遍性」があるのではないだろうか?

 そこで、この記事では、「醜」「不快」について哲学してみたい。


美・快の哲学

 まず、比較的分かりやすい「美」と「快」との関係をみておく。
 美しいものは、たいてい「快の感情」と重なるものだが、微妙にズレることもある。次の図を見てほしい。

「美」と「快」の関係

①は「美しい」が「快」ではない。
②は「美しい」かつ「快」である。
③は「美しくない」が「快」である。
④は「美しくない」かつ「快」ではない。

あまりいい例ではないが、
①は美しい女性だな、とは思うが、心地よいわけではない状態
②美しい女性がいて、テンションもあがるような状態
③決して美しい女性ではないが、いるだけでトキメキを感じるような状態
④美しいとも、心地よいとも思わない状態(必ずしも醜い&不快だと限らない)
を表す。

他の例をあげると例えばWBC⚾。
日本がアメリカに勝ったから、②(「美」かつ「快」)だったが、もし敗れていたら①(「美」だが「快」ではない)になっていただろう。

 たぶん、多くの人にとって、理解しやすいのではないだろうか?
 「美」と「快」は、考察するのは、面白いが、日常生活の中では、あまり切実な問題とはならない。深刻な問題なのは、「醜」と「不快」の問題である。


醜・不快の哲学

「醜」と「不快」

 「醜」を「美」の否定として、「美しくない」、「不快」を「快」の否定と考えられることもある。
 しかし、美しくないからといって、必ずしも醜いわけではないし、快じゃないからといって、不快とも限らない。
 だから、改めて「醜」と「不快」の図を描いてみた。

さきほどと同じような説明になるが、

①は「醜い」が「不快」ではない状態
②は「醜い」かつ「不快」な状態
③は「醜くはない」が「不快」な状態
④は「醜くなく」しかも「不快ではない」状態。

 このことに対しては例を挙げることはしない。
 日常生活の中で「嫌だ!」と思うことがあったときに、①から④の中のどれに当てはまる事象なのか考えてみると、解決の糸口が見つかるようになるはずだ。

 ただ繰り返しになるが、一言いっておくと、「美」と「快」との関係においては、多くの人々の意見は一致するのだが、「醜」と「不快」との関係は一筋縄ではいかない場合が多い。

 ひとつの出来事に対して、意見が美・快の場合よりも、「微妙に」多様化しやすいのである。
 だから、解決のためには、粘り強く当事者同士が話すことが必要になる。


まとめ

 「多様性」ということが言われるようになって久しい。
 「愛」や「美」、「善」ということに関して「多様性」ということが叫ばれることが多いが、「醜」と「不快」にも「多様性」がある。

 自分の価値観を絶対視するのではなく、何を醜いと感じ、何を不快と感じるのかということも、話し合っていきたいものである。


参考文献

中島義道(著)「醜い日本の私」(新潮文庫)、平成21年

 



 

この記事が参加している募集

学問への愛を語ろう

多様性を考える

記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします