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「夢十夜」第六夜について思うこと。

読書の秋である。折角だから、なにか新しい本を読んで読書感想文を書いてみよう、と思うのだが、なかなか長編小説を読むことができない。だから、今まで読んだ中で印象に残った短編小説について書こうと思う。選んだのは、夏目漱石「夢十夜」(第六夜)である。

夏目漱石といえば、私の場合、「坊っちゃん」や「こころ」がまず頭に浮かび、次いで「道草」「門」「私の個人主義」などを思い浮かべるが、一番のお気に入りと云うと「夢十夜」、その中でも「第六夜」である。

短いし、読み返しやすいという単純な理由もあるが、奥深い短編である。

運慶が仁王を彫る話だが、いろいろな読み方ができる。たぶん、研究書もあるだろうけれども、作品自体を楽しみたいので、「漱石論」の類いの書は殆ど読んでいない。だから、誤読もあることだろう。以下に書くのはあくまで「私論」である。

まず、出だしの文を読むと、色彩の豊かな世界が広がる。「赤松」、「青空」、松の「緑」、「朱塗の門」。こころの中に情景を思い浮かべる。とても鮮やかだ。

時代は「鎌倉時代」の夢のはずだが、運慶を見ている観衆は、自分も含めて、「明治」の人間である。
話の最初に感想を言うのは、「余程無教養な(明治の)男」である。そして、話の最後は「明治の木には到底仁王が埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由も略解った。」とある。

この第六夜でなにか主張があるとすれば、明治という時代を風刺したかったのではないか、と想像している。
単純な言い方をすれば、明治の世の中になって急速に近代化を推し進める日本という国が、自国の文化を軽視し、西洋にキャッチアップしていく様子に疑問を呈したかったのではないだろうか?

鎌倉時代と言えば、おそらく価値観が大きく変わった時代である。平安時代の貴族による政治から、平安末期の平氏政権を経て、鎌倉時代になると、完全に力関係が逆転し、武士の世の中になった。
仏教思想の面でも、平安時代の「密教」という「難しい仏教」から、庶民でも実践しやすい「鎌倉新仏教」が生まれた。

平安時代から鎌倉時代への移行。江戸時代から明治時代への移行。

いずれも「激変する時代」だが、前者の変化は「国内の大きな変化」であり、(雑な言い方だが)思想面では、うまく外国(主に中国)の考え方を「日本化」したものと言える。

それに対して後者の変化は、「廃仏毀釈」や「鹿鳴館」に代表されるように、古来の日本文化の伝統を捨て、無節操に西洋を模倣しているかのように、漱石の目には映ったのではないだろうか?「運慶」のような素晴らしい日本文化が、まだ、「力士像」のように残っていてほしいと願ったのかもしれない、といろいろと考えてしまう。

次に「第六夜」の話の内容について、述べたいと思う。

もし、木の中に「仁王」が埋まっていて、「運慶」という天才でなければ取り出すことができないとすれば、「仁王」はいつまで経っても発見することはできないだろう。

これについても、いろいろと妄想してみたのだが、「仁王」を「科学的な真実」、「運慶」を「天才科学者」と読み替えると面白いのではないか、と思っている。

おそらくまだ発見されていなくても、科学的な真実は存在する。かといって、誰でも真実を発見できるかというと、大いなる努力と卓越した技が必要である。

今週はノーベル・ウィークだから、ノーベル賞について考えることが多いのだが、かつてノーベル賞を授賞された物理学者の小柴先生がこんなことを言っていたのを思い出す。

「モーツァルトとアインシュタインでは、どちらか天才か?」と問われたら、「モーツァルト」と答えると。

そのこころは?
モーツァルトの曲はモーツァルトがいなかったら、今存在することはない。それに対して「相対性理論」はアインシュタインがいなかったとしても、他の科学者によって早晩発見されただろうと。

モーツァルトもアインシュタインも「大天才」だと思うが、いずれにしろ、卓越した「匠の技」が必要である。 

「夢十夜」を読むと、「芸術的な香り」と「科学的な真理の発見」という、「感性界」と「理性界」という両方に共通するなにかを感じるのである。

今回の投稿は、「先生」と言えば、「夏目漱石」先生という方の記事を読んで、私も少しだけ漱石先生について書きたくなって書いてみました。
メッセージが伝わればいいな、と思いつつ、ここで終わりにします。

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