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個人差があります





#個人差があります
#PL法
#製造物責任法


(1) 製造物責任法(PL法)


 宣伝の中で、「個人差があります」という言葉が添えられるようになったのはいつ頃だったろう。
 正確なことは覚えていないが、たしかPL法(製造物責任法)が制定された頃だったと記憶している。およそ30年くらい前のことである。

 コンビニ袋に「この袋をかぶると窒息する恐れがあります」みたいな文言が書いてあって、「ウソだろ?」と思ったことがある。

 その頃、アメリカだったと思うが、ネコの体を水で洗ったあとに、飼い主が電子レンジにネコを入れて死亡させてしまったという事件があったとか。
 実際にはどうやら「都市伝説」だったらしいのだが、メイカーがそれくらい戦々恐々としたのは、本当だろう。多額の賠償リスクにセンシティブになったことは間違いないと思う。

https://nekochan.jp/column/article/4357

 その他、喫煙者がタバコ製造者を訴えるというような事案を耳にしたことがある。

https://www.health-net.or.jp/tobacco_archive/oversea/ov980000.html


(2) 個人差があります


 調べてみると「個体差」「個人差」という言葉は、かなり古くから使われているようだ。
 今では何かの商品宣伝だけでなく、個人が書く文章の中にも「個人差があります」「人それぞれです」という言葉が頻繁に見られるようになった。

 「この商品には、コレコレこういう効能があります」と言い切ってしまうと、後々困ったことが出てくる場合もある。効果が現れやすい人、あるいは、場合によっては真逆の効果が現れる人がいたりする。だから、売る側のリスク管理のために「個人差があります」と付け加えるのだろう。

 メイカー側としては、あらゆるリスクを想定しなくてはならないから、気持ちは理解できる。しかし、どんなに優れた商品だって、健康被害を引き起こす可能性があるのは、常識ではないだろうか?

 製造者は「個人差があります」ではなく、想定されるリスクを説明することが大切だ。また、消費者も「いいことばかりでないだろう」と考えて、自ら調べる必要もあるだろう。


(3) スケープゴートになっちゃいないか?


 PL法その他のコンプライアンスを意識する企業が「個人差があります」と言うのはやむを得ない。しかし、個人が発信するSNSへの投稿や、個人間のプライベートな会話にまでいちいち「個人差があります」とか「人それぞれです」と付け加えなくてはならないとなると息苦しさを感じる。

 自分の意見を述べたり、日々自らが感じたことを書くときに、「個人差があります」とか「人それぞれです」といちいち書く必要があるのだろうか?

 個人が前提とする考え方に相違があるのは当然。人の感じ方に絶対的に間違ってると言い切れる人などいない。些細な違いをあげつらったり、全否定しようとするのはなぜだろう?

 誰かに危害を加えない限り、自由な社会では「愚行権」が認められている。

 いちいち「個人差があります」「人それぞれです」って書かなくちゃ分からない人って、面倒くさいな。
 
 私が私の記事に書くことも、あなたがあなたの記事に書くことも、いちいち断らなくても個人差がある。当然だ。
 片言隻句をとらえて、針小棒大に拡大解釈をして、罵詈雑言を並べなくちゃいられない人って、意味不明だ。

 違うところは違っていい。反対意見があってもいい。別に誰も私に同化してほしいなんて思っちゃいない。反対意見があるなら、きちんと反論すればいい。
 批判のための批判、何でもかんでも反対、っていうのは辟易するけどね。
 意見が同じだからといって仲間だとも思わないし、意見が違うからといって敵だとも思わない。人間として、互いにリスペクトする気持ちがあれば、それ以上はなにも望まない。

 



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記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします