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わたしはあなたと旅人として出会いたいのだ(コンパートメントNo.6をみて)

 導入は陽気なハウスミュージックがかかるホームパーティーで。文学の一節を読み上げて作品を当てるというような遊戯に勤しむ大人たち、の間をふらふらと移動する主人公ラウラは誰もいない寝室に入る。楽しんでる?と聞いて抱きついてくるイリーナは彼女のパートナーであるらしい。ラウラはこれから、ペトログリフという古代文字を見るためにロシア北西部の最北地ムルマンスクへ旅立つ。ベッドで戯れながら、自分が行けなくなってしまったことを謝るイリーナを見返すラウラの表情はどこか所在なげである。

 二等車のコンパートメントで同部屋にはウォッカを煽る目つきの悪い男が一人。ぶしつけに話しかけてくるその男から一度は逃げようとするも、なんだかんだで最後まで列車の旅を共にすることになる。この映画は言ってしまえば、ただそれだけのお話である。

映画『コンパートメントNo.6』公式サイト

 一時停車したサンクトペテルブルクで荷物をまとめて下車し、帰りの便を調べるラウラ。公衆電話からイリーナに電話するが、やっぱりムルマンスクには行かずに引き返すと切り出すことができず、列車に戻ってくる。そこには2人の子供を連れた女性がいたのだが、同部屋の男はそこはラウラの席であるからとキープしてくれていた。食堂車で通路越しに男が話しかけてくる——「いつも仏頂面してるな」。ペトログリフを見に行くと聞いた男は意外にも真面目な反応を見せる。わからない。いったいそんなもの見て何になるんだ。そんな彼は炭鉱の一時的な雇われ仕事に行くと言う。
 次の駅ペトロザボーツクで列車は一泊停車するらしい。予定のないラウラはなんだかんだで男の誘いに乗って「老婦人」を訪ねることにする。同乗者、車掌、食堂の給士など、列車の中の限定された関係性から逃れて、あるいは第三者が闖入してくることによって二人の関係性が立体的になり、お互いの眼差しに変化が生じる。この人にはこんな一面が、というアレである。旅とはまさにそういう状況の変化のことでもある。

 つづいての闖入者は起承転結の転を担う。いざ出発しようという車両の入り口で車掌と揉めている男はフィンランド人で、ラウラは同郷のよしみもあってコンパートメントに間借りさせてやることにする。二人は新たな乗客に自己紹介をする。ここではじめて同部屋の男の名前が「リョーハ」と明かされることも象徴的だが、このフィンランド人の男によって、二人の距離は決定的に近づくことになり、ラウラの心境も重要な変化を迎える。
 このフィンランド男に対して、リョーハはなぜか一貫して釣れない態度を取りつづける。ペトロザボーツクでの出来事があり、リョーハとの関係に何かポジティブな予感を抱き始めていたラウラは、この奇遇な三角関係がまた新しい展開を生むのではないかという期待も少なからずあっただろう。ラウラの淡い期待を気まぐれに裏切るようなリョーハの振る舞いは、あるいはそのような下心を見透かしていたのかもしれない。
 さておきその闖入者がもたらした最大の事件は、ラウラが大事に持ち歩いていてイリーナとの親密な思い出も収められていたビデオカメラを窃盗したことである。しかしこの出来事が、二人のあいだで友情が結ばれるきっかけとなり、またラウラにとっては、イリーナへの心理的な依存を断ち切る決心を促すことになる。過去の出来事や感情から距離を置いて眺めること。これもまさに旅が人にもたらす力学的な作用の一つである。

 ぶしつけな態度と粗雑な振る舞いに戸惑う一方、子どものような純粋さと繊細なやさしさを持っているリョーハにいつのまにか惹かれてしまうラウラだったが、いざその気持ちを通わせる手段がわからない。こっそり寝顔を描いたスケッチを渡すとリョーハはしどろもどろになり、住所を交換しようと言うと「そういうのじゃない」と突き返される。追いかけてコンパートメントでキスをしても、しっくりこない。ムルマンスク到着間近になって、リョーハは突然姿を消す。
 奴は何者なのだ、という思いがふつと浮かぶ。旅とともに現れて、旅とともに消える。束の間の友情。無愛想な優しさ。吹雪の中の煙草の煙り。不味いシャンパン。線路の軋む音。雪合戦。誰かの肩で眠る。硬いベッドで目を醒ます。そのコンパートメントにだけ現れて、やがて去っていくもの。旅人として出会ったから、旅人として別れられる。旅人として別れるから、また旅人として出会える。恋人でも友人でもない。わたしはあなたと旅人として出会いたいのだ。

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