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情熱と行動 - 最近何をしたか 10/29-10/25

広めたい気持ち

なんだかこの何日間か、Xのタイムラインに急にグラディウスのキャラを使ったゲームのスクショが貼られたポストが連なった。最初に見たものはリンクも貼られてなかったので、あー知ってる人だけが遊んでスクショ貼る特権ね、くらいしか思ってなかったが、すぐあとにリンク付きのポストも流れていたから誰でも遊べるのだろうと分かった。コナミのグラディウスのキャラでパロディ的な意味もあったのだろうかなって思う。

それはスイカゲームという部類のゲームで、思ったより以前からあるものらしい。それをグラディウスのキャラに置き換えたものが今回タイムラインに流れているようだった。面白いのかどうかも分からないし、私はやりたいと思わなかったけど、リンクを貼ろうが貼るまいが、その人たちには存在を広めるべき理由はあったんだろうと思う。ただ楽しかったから教えたいとか、やったらこうなったよとか、楽しかったから他の人にも遊んでほしいとかね。リンクを貼ってる人は後者だろうけど。そのように考えるとある程度の人が一目置くゲームだったんだろうと思う。

スクショを見た瞬間にもコナミに許諾されているとは思えないのだけど、許諾されているものと心から思ってた人はいるのだろうか。それでも遊んでスクショ含めて感想を書くくらいいいじゃない、とは思う。ふーんって思ったしね。でもやったことの理由の答えは、URLを貼らないからいい、後で削除するからいい、とかそういう守り方なのね、世の中って。そうか、それでいいのかな。オレはそうしたとしても削除しないなあ。現時点でも自分のしたことは間違いばかりだが、削除するのなら過ちを認めてからだね。ああそうか、削除したという事実が過ちを認めたことになるのか。

情熱と行動

そんなことをつらつらと考えていたら自分の致命的な問題に気づいてしまった。昔からアーケードゲームやパソコンゲーム、コンシューマゲームを遊んでいるのにも関わらず、最近はそんなスクショやリンクが降ってきても見ることもしなかった。好奇心がないわけでもないのに。これは結構前のことからな気もするし、遊ぶ気持ちがゼロではないのだが、体が動かない。別に病気だとか、そんな体が動かないとは別の問題で、そこにはやはり気持ちがないのだろう。

それはゲームに限らず様々なものに表れているような気がしている。自分を奮い立たさないとなにもできなくなっている。日々の散歩、音楽を聞く、本を読む、とかね。それらだけではなく、服を着るや、ごはんを食べるという行為も段々とそうなってしまいつつある恐怖もある。

近くのコンビニと言えども外に出るからには服はちゃんとしたものを着たいが、気を抜くとだらっとした格好になってしまう。気を抜き楽に過ごせる服でもちゃんとしたものを着たい。とかね。食事だってお腹が空くとどうしても食べるだろう、とも思うがそうでもない。気持ちが意欲を阻害し、よっぽど空腹になるまでなにもしなくなるような気がしてしまう。それは楽しくないことだ。

ごはんを食べるや服を着ることにまで及べば情熱とは違う分類になるのかもしれない。しかし、楽しむ部分では情熱というのは非常に重要だ。浅いなりにもどこまで深く感じられるか、そういうものを求めていたはずである。いや、はずではなく求めていたし、求めていたい。だからこそ情熱を持ち続けたい。それには自分を奮い立たさないといけないね。


本当はもっと

誰かが言っていた、いいこともあれば悪いこともあるよ。確かに世界はそんな風に動いていて、そう感じることもある。だけど個人の裁量で小さいないいことを軽く扱い、大きないいことを求めすぎてしまう人もいる。また、小さな悪いことは許容できるのだが、大きな悪いことになると手が付けれられない。そんな世においてゆかれる人、そうだ。私小説という名の詩、本当はもっと、誰かの切実な私小説であるべきだったのかも。


戦いと畏敬

世界の仕組みなんてよく分からない、自然に任せてやってゆくしかない。その結果現在が、過去からの状態とは違い、いびつな形に見え、いや、思えたとしても、仕方ない、それが真実だからだ。そして未来のことは分からない。自然に淘汰されるものを掬うすくうというよりも、無駄なことをやめて進むべきで、もったいないを心に持って進めばいい。人間は神ではない。都市化によって絶滅する虫や獣もいるだろう。出会えば命の取り合いも起こる。大部分人間が勝ったとしても、それは仕方なく、それだからこそ相手を尊重も尊敬もでき、畏敬を持てるのだ。


変えられる

時間という長い道のりを進んでいる。それは一本道なのだろうか。そんなことも分からない。時間は止めることはできないので多分そうだ。だが、そのときの選択で人の進むべき方向が違ってしまうから、そんな思考により一方通行ではないという錯覚があるのだろう。時間は一本道だ、だが、事柄はいくらでも変わるし変えられる。




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