見出し画像

素晴らしさの極致 - 最近何をしたか 10/15-10/25

赤毛のアン

赤毛のアンを読んで思ったのは、知らなかった素晴らしさ、知っていたその題名、児童文学のシリーズというべき青い鳥文庫のシリーズの本を読んだ。本来赤毛のアン自体は児童文学ではないが、その世界観や表現は素晴らしく、アンの好奇心や行動など児童文学としてもなんら遜色はないものだ。ただ、難しい言葉や昔風の表現も出てくる。その時代背景も含め、楽しく美しく一方では窮屈で可能性がある。それを深く知りたければ子供でも辞書を引くだろうし、引けばいいだけだろう。それが興味というものだと思う。

この物語のなにが素晴らしいかといえば、ちょっとしつこいくらいなアンの現実と幻想の交じったような世界観、そしてそれを表現するためのことばだろう。そして、アヴォンリーにやってきて不安の中でアンの家族になるグリーンゲイブルズのマシュー、マリラのカスバート兄妹、リンド夫人をはじめとした村の人たち、互いがそれぞれの忠実なる友になる同い年のダイアナ、激しい怒りから始まってライバル関係になるギルバートなど、登場人物の魅力にも惹きつけられる。

また、アン特有の世界から、様々な事件を含むたくさんの事柄にもあふれている。ダイアナを酔わせてしまったり、ギルバートにからかわれ石板を頭に叩きつけ割ったり、特有の想像力から物語クラブをつくったり、ダイアナの叔母をふいにとても驚かせたり、新しくアヴォンリーに赴任した牧師夫妻のミセスアランに塗り薬入りのケーキを出したり、赤毛を嫌っていたアンは髪を染めようとして変な色になったりと、さまざな種類の多様な事柄が起きる。だが、それらの経験から学び感じ成長するアンを見るのも、それらの事柄の顛末も楽しい。そして中には将来につながっている問題もある。

それらを支えるのはやはりことばだろう。翻訳者の村岡花子さんの力が大きい。いや、ただそれだけではない。彼女の感じた原作の言葉がどうやって翻訳の言葉になったかは分からない、だがそれらは村岡花子さんを通した言葉となり、読んでみるとすべて素晴らしいとしか思えない。彼女は赤毛のアンを日本に紹介した人物でもある。原作者のモンゴメリの原書を読んでモンゴメリの言葉が日本人の村岡花子さんの言葉で翻訳された、それは日本人の読者にとってしあわせなことではないだろうか、と思う。それだけ魅力的な言葉であふれている。

赤毛のアンはアンが大人になるまで、いやそれ以上も続く。上記の部分は一巻の多様な人間関係やアン自身も成長し、変わり、消え、また新しくそこから光から出てくるものだ。ここに書いたことは第一巻程度のことだが、それでも書き足りないことばかり。その魅力。そればかりを書くと物語をなぞってしまうだけになる。だからこのへんで。赤毛のアンは子供にはもちろんだが、大人にこそ読んでほしい物語だと思っている。その魅力が凝縮されているのが第一巻だろう。素晴らしさの極致、それしか思いつかないな。


いいよね

なにがどう、あれがこれ、それはそっち、とか、よく分からない。そんな時に思うのは自然とともに生きていて、折り重なり、集められ、捨てられる。そんな無か。どうもどうしようもない人間だな。誰かはいうだろう。そうかもれしれないね。だけど自分に無がやってくるのが分かるんだ。ただの無。でもやがて耳が聞こえだし目も開くときが来る、そう思っていていいよね。


いつしか

音楽は自分を内に向ける、発散することもある、さまざまな体験や経験が目の前や後ろやそばにあって、いつも共に生きている。現実を思い出し、浸る。ドラッグをキメているわけではないのに自分が金平糖になり、リズムに合わせて棘が伸び縮みしてレベルを指し示すよ。そして優雅なエンターテインメントでもあって、ただそれだけの経験。それらはいつしか記憶の中に。そういう存在。


自己制限

痛みや線にさいなまれ、霧のもやに隠される。内側から崩壊してゆくスリル。目を開けても見えないスリル。だまし絵の世界。そんなことあるものか、と叫ぶのもいい。音は聞こえない歪み。反射してるのは自己の内側で、霧につつまれてるのも自分だけ。見えないはずの目の前の壁。高くも見えるし長くも見える。そしてその、どちらでもないような、そんな自己制限。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?