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取捨選択 - 最近何をしたか 4/14-4/24

時間

最近慢性的と言っていいほどに時間が足りない。なにをするにしても以前のように要領よくできていないと感じている。それを定量的、定性的に判断しているわけではないので正確に断言はできないが、時間に追われているという感覚にいつも苛まれているのは事実だ。振り返ってみれば何もしていない時間も多い気もするし、その事柄を細かく認識しているわけでもない。
考えたり生み出したりするような時間と物を消費する時間、それらの組み合わせが曖昧で、規律もなくただ行っているだけ、それが原因かもしれない。自分にはそのルールはあると思っているが、厳密ではないだろう。すべてにおいてルールがあるのをいいとは言わないが、時間が足りないと嘆くのなら、普段において最低限守る規則を作るべきなのだろうと思い始めている。昔なら感覚で割り振れたことも、今ではうまくゆかない。

老い

そういうタスク分配のようなものが動的にできるような脳の瞬発力や柔軟さが失われている。思うに老いという現実も大きい。そのタスクにどのようなプロセスが必要なのかを考え、最適な配置や処理をして実行する、そういう能力が衰えているのだろう。そして老いにより、物事を論理的思考で直感的に理解できにくくなっているのも感じる。物事を理解するのに以前よりほんの少し、ワンテンポ遅れるような、どちらにせよ時間を消費してしまうのだ。老いは仕方ないと思っているが、そういう感覚を知ると、もうお先真っ暗という気持ちにもなる。それが老いなのだろう。

取捨選択

そうなると利用できるリソースが限られていて、それも少しずつ減ってゆく中で、必要なことを行う時間が足りなくなるのだろう。それならば優先順位をつけ必要性の高いものから順に取捨選択していくしかないだろう。しかし私はそれが苦手だ。例えば断捨離のようなものも苦手で、いつか追い詰められ、崖から落ちるように実行するしかない。しかし、それではこの問題には進展はない。なにをやってなにをやらないか、簡単に決められる人もいるのだろう、だがシンプルな時間の進行の中で、複雑なタスクは少し入り組んでいて、自分でそれをやるしかないのに、まだ入り口に立ったばかりなのだ。

ある程度の時期からそういう取捨選択の経験や訓練を積んだ人間ならいいのだろうし、そういう人もいるのだろう。多分利口な人だ。だが私はそれは選択していない。未知の領域に踏み出すということ、入り口に立ったと認識できているのはいいことで、それを実行してゆかなければならないと思っている。それには決断が一番重要なのかもしれないが、把握することから始めて効率的に処理できればいいし、そうしたい。今からやらないといけないのだ。


冷たい先

自分を見つめる冷静な目、それからはどうしても逃れることができずに、こころを燃やすことができていない。別にこころを燃やす必要はないのかもしれないが、人と人の関わりや取り組み、物へのこだわり、そういうものに真摯に取り組みたいと思っているし、それが取り組めているのかという疑問になってしまう。しかしどうすることもできずに、冷たい先のことを考えるだけ。


流れる旅

いつものバラバラの、好きな曲、かつて作っていたプレイリストに入っていた曲を思い出すシリーズ。少しだけ失われた記憶はどこかの電子的な何かによって復元された。同じものを現在の別のシステムで再生してみれば、内から外から思い出や感情もわき上がり、肉体の躍動が起こってしまうよ。今でも聞いているはずの同じ曲、それでも当時の記憶を身に纏えば感じ方も変わる。同じ曲から同じ曲へ流れる旅。


スウィート

どこになにがあるのかな、それを分からずにいる。だからここにわたしがいて、あなたに注ぎたい。聞こえてくる声がどれだけ素晴らしいのか知っている。ずっと見ていたいんだ。あなたがスウィートなのは今の残りを思えば分かること。だからもう時空の彼方に行ったとしても、聞こえなく、見えなくなったとしても、波はやってくる。ずっと聞いていたいんだ。記憶からも記録からもやってきて、結局は感情に溺れてしまうよ。



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