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「育ちの良さ」なんて褒めてるんだか貶してるんだか

お店で1人でも、静かに「いただきます」というのは育ちの良さを感じさせる。

なんて聞いたことがある。


初めてそれを聞いた時、1人じゃなくても言わないこともある私は『育ちの良さ』から縁遠いと言われている気がした。

だって、習慣づいてないもん。


「いただきます」は目の前にある食事への感謝だとも聞く。

作ってくれた人、育てた農家の人、そもそもの動物や自然に、感謝を。


どれだけ心が綺麗だったら、本気でそんな風に思えるのだろうと思った。

でも私にとって、そんな人は嘘くさい。
幸せなんて感じてないくせに「自分は幸せだ」と言い聞かせてる人なんじゃないかと思ってしまう。


一緒にご飯を食べる時、声高々に「いただきます!」と言う友達がいた。

彼女に聞いたら「儀式みたいなもの」と言っていた。
これから食事をするというスイッチみたいな。

ああ、こちらの方がよほど「いただきます」と言いたいと思える。


「今ここ」に集中しろというのは最近よく聞く言葉なんじゃないか。

あれこれやろうとせず、ひとつのことに集中しろ。
食事の時は食べることに集中しろ。集中しないから満腹感がないのだ。

私は常時、ながら食べだ。
今だって、このnoteを書きたくなってしまったからお店でオムライスを頬張りながらこの文章を打っている。
食べるのに時間がかかる分、お腹はいっぱいになってきたが。


話を戻そう。

私は「いただきます」の習慣がない。
なんならお箸の持ち方もまともに教えてもらえなかったし、朝は低血圧で家族におはようも言わなかった。口も悪い。あぐらもかく。


お箸だけは直したけど「育ちが悪い」と言われても仕方ない気もする。

ただ、親のせいじゃないのに「育ちが悪い」なんてやめてくれよと思う。


私は4兄弟。6人家族。
弟が自閉症スペクトラムで手がかかっていたから、しっかり者と言われる私はかなり放任されて育った。

普段のご飯は1人で食べる。
父は仕事で朝から晩まで働き、家にあまりいなかったし、兄弟それぞれ環境が違うから、みんなで食べるなんて年末年始くらいだ。誕生日はなるべくみんなで食べるけど、解散は各々。

母は専業主婦とはいえ、こんなに子どもがいたらひとりひとりのお箸の持ち方なんて見てられないだろう。

「いただきます」を言ってるかなんて、見てられないだろう。
お母さん自身も「いただきます」と言う余裕がないんだから。

おはようを何回言われても言わなかったのは私だし、「私は本当にこの人の娘なのか?」と疑うくらい母の言葉遣いは綺麗だし、母があぐらをかいてた記憶はない。


私が勝手にこんな風に育ってしまったのだ。
育ってきた環境が人をつくるけど、それだけじゃない。
もし私が「いただきます」をいついかなる時も忘れない人間になったら「育ちがいい」と言われるのもなんだかおかしい。私がそうなる時は努力してるはずだから。



わかった。
「親があってのこの人だ」と確信できた時に「育ちの良さ」を言及するのはいいが、そうでない場面で勝手に育ちの良し悪しを決めるのはどうなのよって思ったのだな私は。

妄想で良い親にするな。妄想で悪い親にするな。
親の顔が見てみたいなんて、本気で言ってはいけない言葉なんだ。
どんな子どもも本当の意味で親を憎めない。嫌いになれない。一生特別な存在なのだから。

それこそ「今ここ」にいる相手に集中しなさいよって話なのかもな。



こんなことを書き始めたのは、お店で無意識に「いただきます」と呟いた自分にびっくりしただけだったんだけど。

言っても言わなくても、育ちの良さも人間性も関係ないんじゃないのって思っただけなんよ。

でも、たぶん今日言ったのはオムライスが美味しそうでウキウキしたから。

その気持ちを表現したら、よりウキウキした気がするから、そういう風になれるなら「いただきます」を言った方が人生楽しそうだなって思った。


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