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生まれ出づる悩みのトリセツ

悩みの多い生涯を送って来ました。

人生後悔なしで、振り返らず突き進む自分ではあるけれど、人並みに悩みはある。ただ大体はどうにかなると経験から理解しているので、不安にとらわれ過ぎないないように気をつけている。

悩みは自分で考えてもどうにも解決できない時には、運を天に任せるか、家人または母に相談することにしている。これまでの私の人生と性格を知っているからこそ、信頼して相談できるし、変な風に上から価値観を押し付けられることもないので安心して相談できる。

適当なことを言われそうな雰囲気があるのか、あまり信頼されていないのか分からないが、残念ながら人から相談を受けることはほとんどない。単に人望がないだけかもしれない。

世の中には多種多様な悩みが溢れている。自分ではどうしようも無い生まれつきのものや、ちょっと自分が変われば解決できるもの、人間関係、仕事キリがない。私たちは悩み無限自動精製機であり、生きている限り、無尽蔵に悩みは生まれ出るのだ。

悩みが生まれること自体、心に考える余裕がある状態とも思えるので、ある意味幸せなことではないかとも思わなくもない。病気になってしまったり、思いつめて崖っぷちにいる場合は、入院で物理的に隔離やインターネットから離れて、とにかく信頼できる人とともに心を休めてほしいと思うけれど。悩むにしても何か判断するにしても、自分の中の優先順位をしっかり決めておくことがサバイバルの基本だと信じている。

それにしても大なり小なりの悩みをラジオや新聞、SNSで相談するというのは私の価値観には無くとても不思議だ。自分の人生や価値観、性格を知らない人に相談することの意味はあるのだろうか。子供の頃、子ども電話相談室を車のラジオから聴いていて、同じくらいの子が知らないおじさんおばさんによく相談があるものだとぼんやり考えていたことを思い出す。

私にとって、悩みは解決するものだ。解決をゴールとするならば、私を熟知している人に相談するの一択しかない。相談することで、スッキリしたや悩みの本質が分かったという人の話を聞いたりすると、悩みは解決するだけのものでもないのかなと改めて思った。

解決のない悩みは地獄だなぁと思うけれど、そうじゃない人もたくさんいるのだ。悩みを解決しようとする私の態度は、悩みを話したいだけの人にはしっくりこないのかもしれない。

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幡野さんの「なんで僕に聞くんだろう。」にも色々な悩みが出てきて、cakesの連載は毎回ハラハラして読んでる。こんな質問にどんな言葉を幡野さんが選ぶのだろう、私だったらどう答えるかなと考えながら読む。

生きてきた人生も違う、全然知らない人の質問に答える幡野さんの言葉は、とても優しくて、全然関係ない私に言われているように思えてたまに胸が痛くなる。たいてい涙目で読んでるので、読み終わった時の疲労が半端ない。

悩み相談はどんな媒体に載っていも、ついつい読んでしまう。みんなどんなことに悩んでいるんだろうと興味は尽きないし、回答から新しい価値観を得たりするので趣深い。合わない回答は全く理解できない。ちょっと何言ってるか分かんない。

幡野さんの言葉は、傷ついている人には優しく、自己欺瞞の人には厳しい、頑張ろうとしている人を応援する。その言葉に心が揺れる。私にとっては、本田健氏の立体話法より、立体話法なのではないか。

立川左談次師匠が亡くなったショックが大きく、その時から落語には行かなくなってしまったが、落語は「人間の業の肯定」という談志師匠の言葉を幡野さんの悩み相談から思い出してしまう。

生きている限り悩みは尽きないが、冬が寒くなければ桜が美しく色づかないように、悩みは人を成長させる。悩んだら立ち止まり、自分はどうしたいか考える。それを繰り返して、心を強く持たなければ、この情報化社会で生きていくのはとても困難だ。

ここまで考えて、相談できる人がいなければ、テレビでもラジオでもなんででも相談するといいと結論が出た。お悩み相談の本を買って、自分と似たような相談を読んで考えてもいい。自分の心を落ち着けない限りは、人を非難したり攻撃したりする衝動は抑えきれないし、いつまでたっても苦しいだけだ。しょうもない非難などしてないで、まずは自分の心を正常に戻したら、己の斬魄刀で卍解はできなくても始解くらいはできるんじゃないだろうか。

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