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ジャイメ・レルネル(建築家、元パラナ州知事、1937-2021) ブラジル版百人一語 岸和田仁 月刊ピンドラーマ2024年4月号

 ブラジル文化の核心をとらえた者は少なくない。オスカー・ニーマイヤーはその文化に形式を与えた人物である。彼の放った光、色彩、曲線、芸術的な偉業が、ロジックと内実に通底していた。彼の作品の造形美とリリシズム(熱情)、ブラジルのルーツに繋がった偉大な建築を精力的に追求した成果、が彼の業績である。彼への反対論が渦巻くにもかかわらず、何千もの若者たちが可能性を信じて彼から多大なインスピレーションを受けたのである。そうした多くの若者たちの一人が私であった。
 まさしく彼のおかげで、私は建築学を学ぶことに決めたのであった。本や雑誌に公開された彼の様々なプロジェクトを見聞して建築家という職業を選ぶ意志を固めたのであり、私はオスカーのおかげで当地ブラジルで勉強することを決断した。彼の天才的な創造力に覚醒させられたのだ。(中略)
 1964年の軍事クーデターの最中、軍事政権による報復に抗議してブラジリア大学を辞職し、パリへ亡命する。まさにこの時、ブラジルはその才能を失ってしまった。彼はイタリア、アルジェリア、ポルトガル、フランスと各国を移動することになる。
 私がフランスに留学していた時を思い出す。いつもフランス共産党本部の前を通過していたのだが、あのオスカー設計の美しい党本部建物に見とれては、ブラジル人建築家の世界に自分が属していると誇りに思ったものだ。(後略)

ジャイメ・レルネル Jaime Lerner


2021年5月27日、建築家・都市計画家として国際的に著名なジャイメ・レルネル元パラナ州知事が亡くなった。世界中のメディアが訃報記事を報じていたが、ユダヤ専門通信社であるJTA(ユダヤ通信社)の英文記事では、「世界で最も影響力のある建築家・都市計画家であるジャイメ・レルネルが亡くなった。彼はブラジル・ユダヤコミュニティーにも深く関与していた」と書き始め、後半では、「わがユダヤコミュニティーは、一人の偉大なユダヤ人を失い、ブラジルは一人の偉大な人物を失った」とのパラナ・ユダヤ連盟会長イサク・バリルの言を引いていた。

ユダヤ系ポーランド移民二世としてクリチバに生まれた彼は、同市を、環境にやさしい人間都市のモデル都市に変貌させた立役者であった。ここで、あらためて「人間都市」クリチバについて軽く復習しておこう。
1950年は18万であったクリチバ市の人口は、1960年36万、1970年61万、1980年102万、2000年158万というように急増してきたが、1960年代からマスタープランを策定して計画的な都市政策を実施してきたおかげで、国連環境都市賞(受賞1990年)に象徴されるような、環境にやさしい都市となっている。その要点を列記してみる。

①緑地政策としては、主要河川の流域に沿って公園を整備、民地における緑地保全制、樹木の伐採禁止条例などを実施した結果、「公園という緑と広場」が確保された。緑地の管理コスト急増に対する解決案が、「羊による草刈り」というアイデアの具体化であった。

②交通政策。RIT(統合輸送ネットワーク)と称されるバスを主体とする公共交通システムは、市内のどこへも均一料金で到達できるという画期的なものだが、1980年代から導入された。地下鉄と比較するとコスト面でもはるかに優れており、その中核となるBRT(Bus Rapid Transit)といわれるバス専用レーンとチューブ型バス停の有機的融合方式は、ブラジルの他都市ばかりか世界各国でも採用されている。

③環境政策。「ごみ買いプログラム」、「ごみでないごみプログラム」、「緑との交換プログラム」などクリチバ独自のアイデアを実施しながら並行して環境教育も行う、という住民の現実に即した環境政策を展開してきている。

以上ざっくりとクリチバの都市政策の実績についてメモしてみたが、この都市計画のマスタープランのコンペ(1964年)に参加した時は、レルネルはまだ大学生だった。すなわち、彼は、パラナ連邦大学工学部(土木工学科)を1960年に卒業してから、同大学建築学部(都市計画学科)に再入学し、1964年に卒業している。

1971年初めて市長に当選してからは、市行政の責任者として、自分が立案した都市政策を実行していったが、当選した時「20年後にはクリチバ市民は、市に誇りを持ち、積極的に市政に関わるであろう」と宣言したことでも有名である。

彼は市長を三期(1971-75、1979-84、1989-1992)、パラナ州知事を二期(1995-2002)も務めたので、建築家人生よりも政治家人生のほうが長くなってしまったが、政治イデオロギー色が少ない、ブラジル人政治家としては珍しい人物であった。軍政時代は、与党(ARENA)に属し、後にブリゾーラ率いるPDT(民主労働党)に転じるが、1998年にはPFL現DEM民主党)、と政治的には穏健派の立場をとっていた。

今風にいえば、ESG(環境・社会・企業統治)投資の理念をクリチバという地方自治体に適合させ実行してきた、社会的先駆者であった。

冒頭に引用したのは、彼が心から尊敬する建築家オスカー・ニーマイヤーに関する小論(”BRASILEIROS” Org. JoséRoberto de Castro Neves, Ed. Nova Fronteira, 2020所収)の前半部分からである。


岸和田仁(きしわだひとし)​
東京外国語大学卒。
3回のブラジル駐在はのべ21年間。
居住地はレシーフェ、ペトロリーナ、サンパロなど。
2014年帰国。
著書に『熱帯の多人種社会』(つげ書房新社)など。
日本ブラジル中央協会情報誌『ブラジル特報』編集人。

月刊ピンドラーマ2024年4月号表紙

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