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田山花袋『少女病』を読んで

「すっかり夢中になること」のたとえとして「うれしさに魂天外を飛ぶ」という表現があるらしい。

それほどまでに夢中になれる対象があることをうらやましく感じる反面、生きている動物の、生命の原動力とされる「魂」がぽーんとどこかに行ってしまうのは比喩表現とは言え、いささか恐怖を覚える。

さて、作中の主人公の男は表題の通り「少女」に夢中であり、彼にとって通勤時というのは少女を愛でる至福の時間であった。

『もうどうしても二十二三、学校に通っているのではなし……それは毎朝逢わぬのでもわかるが、それにしてもどこへいくのだろう』

見知らぬ女性の頭のてっぺんから足もとまでを舐めるように盗み見て、年齢や職にまで思いを巡らせる様子を想像してみると……まぁあまり気持ちの良いものではない。

特定の少女に焦がれる話かな?とも思ったが、なんというか彼は「少女という概念」に強い憧れを持っているように感じた。それは突き詰めて言えば「若さ」への憧憬なのかもしれない。

彼の少女への「あくがれぶり」は友人たちにも不思議に映った。

生理的にどこか陥落(ロスト)しているのでは?という説もあれば、以下のような説も囁かれた。

むやみに恋愛神聖論者を気取って、口では綺麗なことを言っていても、本能が承知しないから、つい自から傷つけて快を取るというようなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になって、本能の充分の働きをすることができなくなる(中略)つまり、肉と霊がしっくり調和することができんのだよ。

この肉と霊の不調和、とはどういうことだろうか?

本能の働きというのは「対象との身体接触による性的リビドーの発散」といったところだろうか。霊は魂とも、精神や心とも考えられそうだ。

視界に捉えた少女の「像」に対し、性的なリビドーを発散し続ける「主人公の在り方」は少女の肉体を介してはいない。

そしてその心中に「少女の肉体をどうにかしたい」というひそかな思いが眠っているのなら、彼の肉体と精神は不調和を起こしている……と言えそうではある。

また「恋愛神聖論者」というのは、かつて「少女小説」の作者として一世を風靡したことがある彼を揶揄しているのかもしれない。
(少女小説=少女を読者対象として想定した児童文学のジャンルの1つ)

そんな彼もいまは雑誌社勤めの37歳の青年であった。
退勤時の度に以下のようなことが胸をよぎり、彼を苛つかせる。

家のことを思う。妻のことを思う。つまらんな、年を老ってしまったとつくづく慨嘆する。若い青年時代を下らなく過して、今になって後悔したとてなんの役に立つ、本当につまらんなアと繰返す。若い時に、なぜはげしい恋をしなかった?なぜ充分に肉のかおりを嗅がなかった?

あなたのその「妻」もかつては「少女」ではなかったか?
あなたが見初め、あなたと一緒に年を重ねたのに「つまらん」とはあんまりな言いぐさじゃないか?と少し不愉快に思ってしまった。苦笑

しかし彼の苛立ちの底には「哀しみ」というか「侘しさ」が横たわっているようだった。

いくら美しい少女の髪の香に憧れたからって、もう自分等が恋をする時代ではない。また恋をしたいたッて、美しい鳥を誘う羽翼をもう持っておらない。と思うと、もう生きている価値がない、死んだ方が好い、死んだ方が好い、死んだ方が好い、と彼は大きな体格を運びながら考えた。

自分が「若さ」を取り戻すことはできないし「若さ」の象徴である「少女」に近づく術も持ち合わせていない……と感傷に浸るや否や、一気に絶望に駆られ始めてしまった。

彼の秒単位のような感情の揺れ方に親近感を覚え、彼に何か「いいこと」が起きたらいいのに……とさっきまでの小さな不快感を忘れ、祈るように読み進める私は単純な人間である。

満員電車に揺られながら帰途につく折、神経的にすっかり弱り切った彼の目の前にとある少女が現れる。
それこそ生きるための勇気を取り戻せるかのような目を見張る美少女だ。

その少女が誰かのものになるのかと思うとたまらなく悔しく、彼女がいつか迎える結婚の日を呪ってしまうほど主人公は彼女に夢中になった。

乗客が混合っているのと硝子越しになっているのとを都合の好いことにして、かれは心ゆくまでその美しい姿に魂を打込んでしまった。

しかし幸せな時間は長く続かなかった。
手すりにつかまりながら、彼女の美に恍惚となっていた彼は突然車内から押し出され、線路上に投げ出されてしまう。

最上の美に出会えたうれしさに魂が天外を飛ぶだけでなく、彼の身体も毬のように飛びはねた。

そして線路を染めていく紅い血——

「死は身体からの魂の分離であり、その魂は不滅である」というプラトンの言葉を思い出す。

彼の少女への「あくがれ」は死によって治るのだろうか? 

なんだか彼の執念が車内に漂い続けそうだな、と思ってしまい少しゾクッとした。

(引用元)
『文豪たちが書いた耽美小説短編集』より、
田山花袋『少女病』, 彩図社文芸部編纂.

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