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年齢と性別を越える相互理解はできるのか

だいぶ若かった頃から、たぶん多くの若者がそうであるように、人と人との相互理解について疑問を持っていた。
どうすれば人と人とは相互に理解し合えるのだろうか。
背景の共有が大事なのだろうか。
同じ性質を持つことが大事なのだろうか。同じカテゴリに属することが必要なのだろうか。毎日顔を合わせることが必要なのだろうか。

会社員とは面白いもので、ある程度のバラツキを持ちながら、ある程度の同カテゴリで、毎日ほどほどに顔を合わせる生活をする。彼らの中で私が異端であるか同質であるかは程度問題である。ある意味では、少し異端であり馴染めない、しかし、ある意味では同質である。同じような場所に住み同じような収入で同じような仕事をしている同質性が積み重なっていく。

特にプライベートな会話を積み重ねなくても、仕事上のディスカッションをするだけでも、その人が何を大事にして何を大事にしないかが、なんとなく見えてくる。
仕事で何を楽しむかは人それぞれだ。新しい発見をすること、なにかを面白いと思うこと、着実に実行すること、誰かを喜ばせること、世の中へのインパクト。

仕事をしているとさまざまな考え方に出会う。あるいは、考えなさにも出会う。
そんな中で、自分自身の思考にも嗜好にも輪郭ができてくる。人間は相対的だ、と感じる。

相対的には、同質性の高い集団にも互いの違いは徐々に明らかになっていく。
その同質な部分、異質な部分、両方が、日々の仕事を通してなんとなく互いに共有化されていく。

会社員になるまで知らなかった。
年齢と性別を越えた相互理解は、ある程度は、できる。できると言える。
一方で、ある面では、相互理解できない面もある。
しかし確実に、学生時代よりもずっと、前向きな結論になっている。

結局のところ、年齢性別以上に、人によるところが大きい。

多様性だなんだという時代である。
おそらくどんな多様性に向かっていくかはそれぞれの組織のバランスだ。だが既存の組織の中にないものを求めてみようという際に、既存の組織の中を見てもその良さ悪さはよくわからないであろう。

しかしながら私は、やや疎外感を常に感じつつも同質性と相互理解を享受できる立場として、同じであることも、違いがあることも、さして悪くないと感じる。

さして悪くない。
その程度で良いのではないか。

すべては白黒ではなく、グレーの階調の中にある。
年齢と性別を越える相互理解は、ある程度、できる。
その程度で、とても、昔よりずっと、ハッピーだ。

これから先も、10年後、20年後が、楽しみである。

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