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2023京都大学/国語/第二問(理系)/解答解説

【2023京都大学/国語/第二問(理系)/解答解説】

〈本文理解〉
出典は福永武彦「小山わか子さんの歌」(1949)。前書きに「次の文は、結核で亡くなった小山わか子を追悼して、東京療養所の短歌雑誌に発表されたものである。筆者も当時小山と同じこの療養所にいた」とある。
①段落。僕は小山わか子さんについて何ら識るところがない。僕はただ小山さんの死後に編まれた薄い歌集によって、その精神の流れを遥かに望んだばかりである。そして僕がこの人の生き方をかなり自由な想像をもって追体験することが出来るとしても、真実に営まれた生というのはもはや遠く、小山さんを識る人の記憶からも既に日々に遠いであろう。… 一つの生がまったく終わってしまい、ただ故人を識る人の記憶の中にのみその生が延長していると考えることは、恐らく人間のはかない諦念のなせる業であろう。しかしこのような記憶、死者の記憶によって埋められた記憶なくしては、僕たちは生のもつ真の悦びに到達し得ないのである。死者が生者に対して意義を持つのは、生者の意識の内部において、彼の純粋の生を常に死の記憶によって新しくするように死者が作用している点にある。死者は死と共に死なず、彼を知る生者の死と共に死ぬと言えるだろう。死者に対するもっともよい冥福は彼らの生の記憶を常に美しく保存すること、時と共により一層美しく保存することにある。「忘却が死者の最大の敵ではないだろうか」(傍線部(1))。
②段落。結核療養所の中に生活する病人とって、死は常に最も不幸な関心事である。自らの死とともに他者の死というものが異常に生々しく僕らを取り巻いている。僕らはしばしば自らの死の予想に苦しみ、その不安に耐え切れないために、他者の死に対して真に悲しむことをなし得ないのではないか。死は厳粛な事実である。しかし療養所の中においては、僕らはあまりにこの事実に馴れすぎている。死が日常に在ることによって僕たちは他者の死を厳粛に考えるに耐えない。「自らの問題の不安には目をつぶり得ないゆえに他者の問題に不安を見ようとしない」(傍線部(2))。…そして次に来るものは速やかな忘却である。そして僕らはただ自己の孤独の内部に在り、自己の不安にのみ直面している。しかし真の生はこのような、謂わば臆病な、自己保存的な、態度の中には無いだろう。「他者をも自己のうちに持つことは自己を希薄ならしめることではない」(傍線部(3))。悲しみを多く感じる機会があることによって、療養所における僕らの生活は真のパトス(※)に常に洗われているのではないか。
③段落。僕がこのようなことを言うのは、僕が小山わか子さんの死を深く悲しんだゆえである。前に書いたように、僕はこの人と何のつながりもない。…袖珍版二十四頁のガリ版刷の小冊子に、僕はただ小山さんの生活を記録した僅かばかりの歌を読んだのに過ぎぬ。しかしこれらの歌を通して、孤独な終焉に至るまでのその病床の生活が僕に生々しく会得された。このような生き方に感動した。小山さんの死を悲しむということはその送った生が類のなく美しいものであったことに起因している。病者の生は、一般に言って、ただその精神生活をのみ純粋に生きるから、またそこに多くの苦しみと不安とがあるから、かえって生の普遍的な姿を簡明に示している。しかしその中でも、小山わか子さんの生き方は美しい。僕らにとって死を悲しむ心は畢竟生を惜しむ心である。

※パトス=人を動かす深い感情。


〈設問解説〉
問一「忘却が死者の最大の敵ではないだろうか」(傍線部(1))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(二行)

理由説明問題。通常「AはXだ」の理由の形式は、主語Aを固定してXの近似であるX' を見出し「AはX' だから(→X)」となるが、別のアプローチとしてAと対比的なBを主語に置き、Xと対比的なYを述部に置いて「BはYだから(→AはX)」という理由立ても可能である。ここでは、傍線部の主語である「(死者の)忘却」(A)に対して「(死者の)記憶」(B)を主語に置き、「敵」というネガ要素のXに対してポジ要素のYを置いて「BはYだから」という形式で解答するとよい。
「BーY」を構成するための根拠となるのは、いずれも傍線部の前部から「死者が生者に対して意義を持つのは、生者の意識の内部において、彼の純粋の生を常に死の記憶によって新しくするように死者が作用している点にある(a)」と「死者に対するもっともよい冥福は彼らの生の記憶を常に美しく保存すること…(b)」。これらを解答に組み込むとき、元の形式では文が固くなるので(「記憶は/〜死者に意義を付与し/〜冥福をもたらすから」)、「記憶」を主語にすることにこだわらず、以下のように解答する。「死者の意義は記憶を通して生者の意識を更新することであり(a)/その記憶を美しく保つことが冥福にもなるから(b)(→忘却は敵だ)」。

〈GV解答例〉
死者の意義は記憶を通して生者の意識を更新することであり、その記憶を美しく保つことが冥福にもなるから。(50)

〈参考 S台解答例〉
生者による死者の忘却が、死者の生の記憶を生者が常に一層美しく保存する機会を奪い、死者のよい冥福を不可能にするから。(57)

〈参考 K塾解答例〉
死者は、その記憶を美しく保存する生者の生を更新しつつ存在し続けており、忘却が死者を真の死に至らしめるから。(53)

〈参考 Yゼミ解答例〉
死者にとって忘却は、生や死を生者に示す契機となる生の痕跡が、人々の記憶から抹殺されることを意味するから。(52)

〈参考 T進解答例〉
死者を知る生者の記憶が美しく保存され続けることによってこそ、死者は生者と共に生き続けられるから。(48)


問二「自らの問題の不安には眼をつぶり得ないゆえに他者の問題に不安を見ようとしない」(傍線部(2))はどういうことか、説明せよ。(三行)

内容説明問題。「AゆえにB」という形の内容説明なので、AとBをそれぞれ分かりやすく換言するとともに、「A→B」の因果関係に飛躍が感じられるならば、それをブリッジするC要素を間に置き、「AゆえにCなのでB」という具合により滑らかに因果を説明するとよい。
ABの換言要素となるのは傍線部の前部「(結核療養所では)自らの死とともに他者の死というものが異常に生々しく僕らを取り巻いている。僕らはしばしば自らの死の予想に苦しみ、その不安に耐え切れない(A)/ために/他者の死に対して真に悲しむことをなし得ないのではないか(B)」、また直前部「死が日常に在ること(A)/によって/僕たちは他者の死を厳粛に考えるに耐えない(B)」の箇所。これらを合わせて「結核療養所で日常にある他者の死が自らの死の予想を促し不安に耐えられない(A)/ゆえに/他者の死を厳粛に受け止め真に悲しむことができない(B)」となる。さらにAとBをブリッジするCを置き、「不安に耐え切れない(A)→不安から逃れたい(C)→他者の死を厳粛に受け止めない(B)」とすればよい。
加えて、Bの箇所が「不安を見ようとしない=厳粛に受け止め真に悲しむことができない」というように、否定形で終わるので肯定形の表現に切り返し、否定によって囲われた内実を埋めるとよい(ないある変換 :「XはYではない」という否定形は、対象Xの外縁を示すものなので、次にその外縁の内側を明らかにすることが要請されるのである)。ここにはBから続く「そして次に来るものは速やかな忘却である」(D)を用い、次のように解答する。「結核療養所で日常にある他者の死が自らの死の予想を促し不安に苛まれるあまり(A)/その不安から逃れようと(C)/他者の死を厳粛に受け止めず(B)/忘却しようとするということ(D)」。こうすると「不安→忘却」の関係が出て、より伝わりやすくなるだろう。

〈GV解答例〉
結核療養所で日常にある他者の死が自らの死の予想を促し不安に苛まれるあまり、その不安から逃れようと他者の死を厳粛に受け止めず忘却しようとするということ。(75)

〈参考 S台解答例〉
結核療養所で日常的に死に接して生きる筆者たちは、自らの死の予想に苦しむ不安を無視できないため、同じ境遇の他者の死を厳粛に考えようとせず、真に悲しむこともないということ。(84)

〈参考 K塾解答例〉
死の予感に苛まれている病者にとっては、他者の死が耐え難い死の不安に自己をさらす機縁となるために、他者の厳粛な死を深く悲しむことを回避しようとするということ。(78)

〈参考 Yゼミ解答例〉
死が身近にある者は、迫りくる自らの死から目を背けられないため、他者の死を厳粛に受け止めないことで、不安を緩和しようとする自己保身的態度を取るということ。(76)

〈参考 T進解答例〉
結核を病む人間は自らの死を予想する不安に耐え切れないがゆえに、同じ結核患者の死はあまりに生々しく、それと厳粛に向き合い真に悲しむ余裕もないということ。(75)


問三「他者をも自己のうちに持つことは自己を希薄ならしめることではない」(傍線部(3))はどういうことか、小山わか子の歌集にも触れながら説明せよ。(四行)

内容説明問題。まず傍線部自体の主部「他者をも自己のうちに持つこと」とは、「他者の問題に不安を見ようとしない」(傍線部(2))と真逆の態度なので、「他者の死を厳粛に受け止めること/他者の死の悲しみを受け止めること」などと換言すればよい。述部については、問二でも説明した「ないある変換」と傍線部次文「悲しみを多く感じる機会があることによって、療養所における僕らの生活は真のパトス(※)に常に洗われているのではないか」を踏まえ、「自己の深い感情(←パトス)を新たにし/自己の生を濃密にする」と換言しておく。
次に、上の傍線部の説明に着地するように、設問要求である「小山わか子の歌集にも触れながら」に応えて解答前半部を定める。根拠となるのは最終段落から「これらの歌を通して、孤独な終焉に至るまでのその病床の生活が僕に生々しく会得された(a)。…病者の生は…かえって生の普遍的な姿を簡明に示している(b)。しかしその中でも、小山わか子さんの生き方は美しい(c)」という一連の内容。ここから解答前半を「筆者が小山の生前の歌に触れ、孤独な終焉に至る病床生活が生の普遍的な姿を示しながら(ab)/とりわけ美しく感じられた(c)」とし、上記の傍線自体の説明につなぎ、以下のように解答を整えた。「筆者が小山の生前の歌に触れ、孤独な終焉に至る病床生活が生の普遍的な姿を示しながらとりわけ美しく感じられたように//他者の悲しみを受け止めることは/自己の深い感情を新たにし生を豊かにするものだということ」。

〈GV解答例〉
筆者が小山の生前の歌に触れ、孤独な終焉に至る病床生活が生の普遍的な姿を示しながらとりわけ美しく感じられたように、他者の悲しみを受け止めることは、自己の深い感情を新たにし生を豊かにするものだということ。(100)

〈参考 S台解答例〉
筆者が歌集を通して小山の精神生活に触れ、その生の美しさに感動し、死を悲しむことで普遍的な生の姿を感じたように、他者の生をも実感し、死を悲しみ、記憶を更新し続けることは、死に直面する者の真の感情を動かし、真の生を感得させるということ。(116)

〈参考 K塾解答例〉
苦しみや不安を抱えつつ純粋な生を全うした名もなき無縁の死者の歌集に筆者が生の普遍性を感受し、悲しみとともに感動したように、他者の死を深く悲しむことは、生者の精神を浄化し、生のかけがえのなさを感得させるということ。(106)

〈参考 Yゼミ解答例〉
他者の生死に関心を向けることは、死への恐怖にさいなまれることではなく、見知らぬ他人が遺した歌集であっても、そこから美しい生き方にふれ、生を追体験することによって普遍的な生の意味が得られ、自己の糧となるということ。(106)

〈参考 T進解答例〉
孤独な終焉に至るまで苦しみと不安の中で精神生活のみを純粋に来た小山わか子の歌集を読んだ筆者が、その類なく美しい生に普遍的な姿を見出したように、他者の死を深く悲しむ心は生を惜しむ深い感情を生むということ。(101)

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