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2019センター国語/第一問(評論)/解答解説

【2019センター国語/第一問(評論)/解説講義】

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こんにちは。GVの国語を担当しています大岩です。今日は、先日行われたセンター試験の解説を、できるだけ簡潔に行おうと思います。GVでの授業の雰囲気を感じとってもらえたら幸いです。
まずは第一問の評論から。出典は沼野充義「翻訳をめぐる七つの非実践的な断章」。ロシア文学者の筆者による、やわらかい文体のエッセイからの出題でした。

2013東大国語/第一問「ランボーの詩の翻訳について」(湯浅博雄)↓↓
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=872312656293089&id=156247554566273

2018北大国語/第二問「翻訳、このたえざる跳躍」(野崎歓)↓↓
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=876305162560505&id=156247554566273

センター試験では、厳しい時間的な制約の中で客観的に本文を読解し、それに基づき正しい答えを導くことが求められます。ところで「客観的に読む」とはどういうことか。それはつまるところ、筆者と読者一般との間で共有されている(はずの)「前提」にしたがって読むことです。その前提となるのは「言葉の標準的な意味」と「表現上の工夫」です。そこで、前者については必要最低限の語彙を身につける必要があり、後者については半ば無意識のうちにやりとりしているものを意識化する必要がある。
その意味で現代文の学びで、まず必要になるのは「形式性」へのこだわりであり、読解の途中で教師が「わかりやすい」説明を施すのは学ぶものが自ら内容を汲みとる機会を奪うことにもなりかねない。もちろん徹底した「形式」へのこだわりの先に豊かな「意味世界(内容)」の海が広がるのですが。
したがって、センター試験でも、もちろん二次試験でも、形式性に則った客観的な読みが求められ、それが結果として「速読」を可能にします。その上で、設問の要求を十分にふまえ、解答の根拠を本文中から探し、選択肢を「書くように」選ぶ。こうした一貫した方針を、あらゆる文章に適用し、誤りを修正しながら継続して鍛練する。これが現代文の試験で「確実に」高得点をとるための、正しい方法だと考えます。

〈本文理解〉
①~④段落(1️⃣)。僕はいい加減な人間なので、翻訳について考える場合にも、二つの対極的な考え方の間を揺れ動くことになる。楽天的な気分のときは、たいていのものは翻訳できると思うのだが、悲観的な気分に落ち込んだりすると、翻訳なんて原理的に不可能なのだ、といった考えに傾いてしまう。(具体)。確かにたいていのものは翻訳されている、という確固とした現実がある。しかし、それは本当に翻訳されていると言えるのだろうか。(具体)…などと考え始めると、どうしても悲観的な翻訳観のほうに向かわざるを得なくなる。しかし、こう考えたらどうだろうか。まったく違った文化的背景の中で、まったく違った言語によって書かれた文学作品を、別の言語に訳して、まがりなりにも理解されるということじたい、何か奇跡のようなことではないのか、と。翻訳を試みるとは、この奇跡を目指して、奇跡と不可能性との間で揺れ動くことだと思う。もちろん、心の中のどこかで奇跡を信じているような楽天家でなければ、奇跡を目指すことなどできない。…「翻訳家とはみなその意味では楽天家なのだ」(傍線部A)。
⑤~⑨段落(2️⃣)。もちろん、個別の文章や単語を丹念に検討していけば、「翻訳不可能」だと思われるような例はいくらでも挙げられる。(具体)。このような意味で訳せない慣用句はいくらでもある。それを楽天的な翻訳家はどう処理するのか。戦略は大きく分けて、二つあると思う。一つは、一応「直訳」してから、注をつけるといったやり方。(具体)。しかし、小説などに注が頻出するとどうも興ざめなもので、最近こういったやり方は評判が悪い。では、どうするのか。もう一つの戦略は、近似的な「言い換え」である。つまり、同じような状況のもとで日本人ならどのように言うのがいちばん自然か、考えるということだ。ここで肝心なのは「自然」ということである。いかにも「生硬」な日本語は評価されない。むしろ、いかに「こなれた」訳文にするかが翻訳家の腕の見せ所になる。(具体)。ともかくそのように言い換えが上手に行われている訳を世間は「こなれている」として高く評価するのだが、厳密に言ってこれは本当に翻訳なのだろうか。「翻訳というよりは、これはむしろ翻訳を回避する技術なのかも知れない」(傍線部B)のだが、あまり固いことは言わないでおこう。
⑩~⑫段落(3️⃣)。あまり褒められたことではないのだが、ここで少し長い自己引用をさせていただく。『屋根の上のバイリンガル』という奇妙なタイトルを冠した、僕の最初の本からだ。(引用部/幼少期、外国文学の翻訳を読み、娘が父に「わたしはあなたを愛しているわ」と言う箇所があり、ガイジンはさすがに言うことが違うなあと妙に感心したが、下手くそな翻訳とは思わなかった…)。
⑬~⑮段落(4️⃣)。(具体)。「ぼくはあの娘にぞっこんなんだ」と「私は彼女を深く愛しているのである」では全然違う。話し言葉として圧倒的に自然なのは前者であるが、後者が間違いと決めつけるわけにもいかない。ある意味で後者のほうが原文の構造に忠実なだけ正しいとさえ言えるかも知れないのだから。しかし、「正しいか、正しくないか、ということは、厳密に言えば、そもそも正確な翻訳とは何かという言語哲学の問題に行き着く」(傍線部C)のであり、普通の読者は言語哲学について考えるために翻訳小説を読むわけではない。多少不正確であっても、自然であればその方がいい、というのが一般的な受け止め方ではないか。確かに不自然な訳は損をする。(具体)。最近の「こなれた訳」に慣れた読者はたいていの場合、その変な日本語を訳者のせいにするから、訳者としては自分の腕を疑われたくないばかりに、変な原文をいい日本語に直してしまう傾向がある。

〈設問解説〉
問1 (漢字の書き取り)
(ア) 丹念  (イ) 漠然 (ウ) 響く  (エ) 頻出 (オ) 圧倒

問2 「翻訳家とはみなその意味では楽天家なのだ」(傍線部A)とあるが、どういうことか。その説明として最も適当なものを選べ。

内容説明問題。このタイプの問題の基本方針は、「要素に分けて言い換え」だが、必要に応じて傍線部以外の要素も傍線自体の内容を補強するものとしてつけ加える必要がある。本問では、傍線部の要素として「その意味で」にポイントがあるのは明らか。その指示内容は、前文より「心の中のどこかで奇跡を信じている」(a)という意味で、となる。さらに3文前に遡及して、その「奇跡」とは、「まったく違った文化的背景の中の/まったく違った言語によって書かれた文学作品を/別の言語に訳して/まがりなりにも理解される」(b)ことである。
以上より、「bであるのは奇跡だが/その奇跡を信じている点で(a)/翻訳家はみな楽天家である」となる。選択枝を横に見て①以外は「XでもY」という逆接構文になっていることにも着目し、aと対応するYの部分から④と検討をつけ、Xの部分(bと対応)も妥当なので、これを正解として積極的に選ぶ。

問3 「翻訳というよりは、これはむしろ翻訳を回避する技術なのかもしれない」(傍線部B)とあるが、筆者がそのように考える理由として最も適当なものを選べ。

理由説明問題。理由説明の基本的な方針は、始点(S)と終点(G)を定めて、その間の飛躍を埋める理由(R)を指摘することである。本問では、Sは「これ」、Gは「翻訳を回避する技術」である。「これ」の指す内容は前文より「言い換えが上手に行われている訳」(⑨段)だが、具体例を挟んで遡ると、「近似的な「言い換え」」(⑧段)という要素が拾える。
後は、「これ=近似的な「言い換え」」(S)を「翻訳を回避する技術」(G)つなぐ内容(R)を間に補うことになる。ただし、このRについては本文で明示的には述べられていない(自明とされている)。この場合、記述の解答なら、本文の記述を参考にして、自力でSとGをつなぐRを導かなければならない。⑧段「日本人ならどう言うのがいちばん自然か、考える/日本語として自然なものでなければならない」が参考になる。つまり「近似的な「言い換え」」においては、一つ飛びに「日本語の次元」で言葉を当てはめるのであり、「原文」から離れているのである。よって、「近似的な「言い換え」」は「翻訳を回避する技術」と言えるのだ。ただ実践的には選択肢を横に見て、全て2文構成で2文目は「だが」で始まることに着目し、1文目に「これ」の指す「近似的な「言い換え」」がある②と検討をつけ、「だが」以降もGに着地する内容として妥当なので、これが正解。
センター国語の選択肢の作りは、二次記述において大学側が求める水準を教えてくれる。形式論理から解答要素をたどるのは必須だが、それにとどまり本文要素をつなげただけの、意味が通じにくい解答は求められていないのだ。

問4 「正しいか、正しくないか、ということは、厳密に言えば、そもそも正確な翻訳は何かという言語哲学の問題に行き着く」(傍線部C)とあるが、ここから翻訳についての筆者のどのような考え方がうかがえるか。その説明として最も適当なものを選べ。

傍線部の真意を問う問題。「正しいか正しくないかは…言語哲学の問題」とする筆者の翻訳についての考え方を問うている。傍線の前後から「言語哲学の問題」の意味するところを考える。まず、前の部分で「話し言葉として自然な訳」(a)と「原文の構造に忠実な訳」(b)を比較している。そのどちらが「正しい」か筆者自身決めかねた上で、「言語哲学の問題」とするのである。次に後の部分で「普通の読者は言語哲学について考えない/不正確でも自然である方がいい」と続いている。以上より、aかbかどちらが正しいかは読者の関与する問題ではなく、言語哲学の分野で専門的・根源的に論じる性質のもので(c)、簡単に定まるものではない(d)、というのが翻訳についての筆者の考え方であろう。
選択肢は全て2文構成で、①②③が「そのため」(順接)、④⑤が「とはいえ」(逆接)となっているが、接続では決めにくい。上のaとbが明記してあるのは②④⑤だが、④はaとbの「両立」としている点、⑤はaが「効率的」としている点が良くない。それに対して②は、「(言語)哲学」(c要素)を「原理的な問い」と踏まえており、問いが「解決しがたい」(d要素)ことにも触れているので、積極的に選べる。

問5 本文を読んだ後に、五人の生徒が翻訳の仕事について話し合っている場面で、本文の趣旨と異なる発言を選べ。

本文趣旨問題(誤答選択)。全文を通した筆者の翻訳に対する考え方を理解した上で、その趣旨と明らかに矛盾する選択肢を選ぶ。本文は、空白行により4つのパートに別れる。1️⃣では、文化・言葉の違いからくる翻訳の不可能性を踏まえた上でなお、「奇跡」を目指す翻訳家の立場が強調される(問2)。2️⃣では、慣用句のように訳せない表現に対して、翻訳家は「こなれた/自然な/近似的な言い換え」戦略をとることが述べられる(問3)。3️⃣の引用を挟んで、4️⃣では再び、「こなれた訳」と「原文の構造に忠実な訳」を比較し翻訳の難しさが確認される(問4)。
以上の理解により、各発言の結論部を中心に選択肢を検討する。①③④が文化の違いに起因する翻訳の難しさを述べていて妥当(1️⃣)。⑤では「こなれた表現」がとられがちだが(2️⃣)、それでもとの表現がもつ「ニュアンス」が消えるという、翻訳の難しさが述べられており妥当(4️⃣)。答えは②。「時代や文化の違いをなるべく意識させずに読者に理解させるのが翻訳の仕事の基本」などという趣旨は本文にない。

問6(Ⅰ) この文章の表現に関する説明として適当でないものを選べ。

表現意図問題(誤答選択)。選択肢を順に見て、本文の該当箇所と照らし合わせ、明らかに矛盾する選択肢を選ぶ。正解は④。「あの時の少年は一体どんなことを考えただろうか」は、「二十年後の自分が翻訳にたずさわり…四苦八苦することを聞かされたら」という仮定(反実仮想)を承けた上での推測に過ぎず、「当時を懐かしむ感情」など含まれるはずがない。

問6(Ⅱ) 構成に関する説明として最も適当なものを選べ。

構成意図問題(正答選択)。(Ⅰ)と異なり「正答選択」だが、この場合も選択肢を順に見て、該当箇所と照らし合わせ、明らかに矛盾する選択肢を消していく方が確実であろう。②が正解。「言い換え」は、翻訳不可能な表現に対する次善の「戦略」として挙げられており、「(本来的な翻訳と)別の手法」と言ってよいだろう。
①は、対極的な二つ立場(楽天的/悲観的)のうち、一方の立場に確定させていないので不適当。「二つの対極的な立場を揺れ動く」(①段)のであり、傍線部A「その意味では楽天家」というのも、あくまで限定的なものである。③は、引用部だが、幼少期の外国文学体験は、現在の職業に就くのきっかけとされていないので不適当(読めば分かる)。④は、翻訳の正しさについて、筆者の考える正しさは示されていないし、結論を読者に委ねてもいないので不適当。問4で検討した通り「言語哲学の問題」で、容易には定められないものだった。

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