見出し画像

【おっさんの戯言】怒りの正体。

以前に投稿した記事で
「喜怒哀楽」

「喜と愛楽」
のように表現する人になりたい…
哀しみは
情愛の証しとしてのみ感じて
怒りの感情は
ココロの濁りが消えるまで待って無効化する
というような文章を載せた。

怒りを露わに表現しない
ということは私の人生観のうえで欠かせない
なんとか体現させたいと思ってる理想像なのだが…

実は
その投稿のひと月もたたない後に
今年も父親と
怒鳴り合いの大喧嘩
を繰り広げてしまっていた。

昨年の父の日に投稿した
『父と私…』
というタイトルの記事の中でも
その投稿のちょっと前に
我々が衝突をしたということを綴っていたが

本当に毎年その時期になると
父親から理不尽な因縁をつけられ
私はそれに応じるかっこうで
怒りを露わに放ってしまい
たちまち怒鳴り合いに発展し
性懲りもなく大喧嘩を繰り広げる。

そしてそれは…
さしずめ我が家の春の風物詩とも言えるほどだ。

今年もその時期となり
例年通りの展開を経て
いつものことながら
私の怒りの感情を大開放する運びとなった。

今からおよそ3ヶ月ほど前の出来事だった。

そしてその後
その出来事についての
反省と考察をしていくなかで
自分の怒りというものに
より真剣に目を向け始めていた。

それによって今更ではあるが
ようやく気付けたことがあった。
それは
私が怒りの感情のコントロールを失ってしまう
ある鉄板のパターンについてである。

そのパターンというのが
「無駄に過剰なマウントを取りに来られた時」
又は
「そういう行為をする人物に対して」
というものだ。

ここでの「無駄に」というのは
「道理や筋道を無視した自己顕示欲のみで」
というような感じ…

そして「過剰な」というのは
「人の根本を否定しにかかる
強い支配欲を剥き出しの価値観の押し付け」
といった感じ…

そして
このような行為をする人物に対しては
反射的に不快感を露わにし
憎しみすらぶつけてしまうこともあった。

中には『人でなし』認定を下し
まともな交流を絶ってしまうことも…

冷静に考えれば
マウント行為などに対しては
相手をノセて受け流せば済んでしまうのに…
服従したそぶりを見せてしまえば収まるのに…
そしてそのように返したうえで
その相手を哀れんであげればいいのに…

(その行動を取らない私を父親は恨んでいるのだ)

考え方としてはもっともだと思える。
自分でもそれがスマートな対応なんだと
頭では理解しているし、理想ともしている。

しかしながら私は
そのようなマウント行為に対してだけは
絶対にそのままの要求に応じない。
決して相手に満足を与え無い。
と頑なになってしまう。
そして
そうする為の言動を
沸き上がる怒りと共に
ほぼ反射的に取ってしまう。

何故なのだろうか…

その根元には
やはり私の父親の影がある。

少年期から現在まで
ことあるごとに
繰り返してきた父親との衝突。

その裏にあるものはおそらく
幼少期からも同じように受けてきた
父親からの理不尽な言動に対しての
過剰な自己防衛反応なのだろう。

いわばトラウマに近い。

私の怒りの根元にあるのは
このトラウマなのではないだろうか。

そう思えた時を堺に
「喜と愛楽」
を体現できるイメージを
掴みかけはじめてきた感じがしている。

私は本来、対人関係においては
協調路線で応じるタイプである。

しかしながら

「人好き」と公言しつつ
「人でなし」と見切りを付ける。

「人の笑顔に関わりたい」と思っていながら
「怒鳴り合いにまで発展する喧嘩」に
正面切って応じてしまう。

「楽しむ」ことを信念に持ちながら
誰も得をしない、誰も楽しめない、
「怒りの感情を放つ言動」を取ってしまう。

これらの両極端な二面性を持つ自分に
甚だ疑問をいだいていたし、是正を試みてもいた。
しかしながら修正の糸口は何ひとつ見えてなく
諦めや開き直りの感情すら
抱き始めていたところだった。

今回の気付きはその難解な課題を紐解く
突破口となり得るもののような気がしている。

私の怒りの反射反応は
自己を否定され、
強引に捻じ曲げられようとすることに対しての
強烈な危機感から来ているのだ。

この危機感からの反射的な反応は
まだ明確に自己を確立していない頃の私には
必要なものだったのだろうが、
完全に自己を確立している今の私にとっては
まるで意味をなさないものなのではないだろうか。

今現在に於ける私は
自己の価値観や信念をハッキリと認識していて
それを曲げる、曲げられることは
まずあり得ないことを確信している。
自分と他人の境界線も明確に認識しているので
安易に他人の価値観に影響を受けることもない。

そして、この事実の認識を常に意識していれば
自分以外からのいかなる圧力も
マウント行為も人格否定を受けても
殺されない限りにおいては
まるで効力を持たないことなのだと理解できる。

無意味な行為に対して
過剰に反応する必要など何もなく。
むしろ冷静に見つめれば
今までの私の必死の対応は
実に滑稽な行為であったと
自分を嘲笑いたくなってくるほどではないか。

そう思えてる今
『喜と愛楽』
の体現をイメージすることができ始めているのだ。

そして、このことは
理想の自己実現への
大きな一歩なのであろうことを
ひしひしと感じ始めている🤭👌

因みに今現在の私の自己実現への道の
進捗率は5割程度ってとこ…😋













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?