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ぼくが宗教を苦手になったわけ

宗教が苦手だ。

別に嫌いというわけではない。 

なんらかの宗教に入っている人達に嫌悪感もない。

矛盾してるが、神に祈るという行為も嫌いじゃない。神社にお参りにも行く。八百万の神々がいるという日本の考え方もどっちかっていうと好きな方だ。

ただ、望んでないのに自分に降りかかってくる。

そんな宗教が苦手だ。

始めて意識したのは大学時代。

18歳の夏。大学生活で初めての彼女と、お付き合いを始めて間もない頃のこと。

「私、実家が教会でキリスト教なの」

「だから、その、そういう行為ができなくて」

「あの、そういう行為って、わかるよね?」

お付き合いを始めてからのカミングアウト。有頂天だった自分に突然の訃報。晴天の霹靂。後出しジャンケン。勝利目前のわき腹にボディーブロー。

キリスト教徒は婚前交渉を禁止されているのか?

否、結果的には禁止されていなかった。実際には彼女の思い込みで、「お願いだからもう一度しっかりと調べてみて欲しい」という私の懇願により、真実が明らかになったのだった。

これが最初に芽生えた「宗教」への不信感。

安堵したのも束の間。

彼女はキリスト教徒。しかも牧師の娘。毎週日曜日にあるお祈りの儀式「ミサ」には必ず出席しなければならなかった。割と忙しい大学生であったら我々には、この日曜日の制約が非常に厄介で、日曜のお出かけや土日の旅行なんて行けたものではなかったのだ。

厄介なのはそこだけではなくて、それぞれの感覚の違いである。私とは違い、彼女には日曜日に柔軟に活動できないというのが当たり前であることだ。

なぜ幸せを求めて信じる宗教によって、生活に制限が生まれるのか。なぜ彼女はおかしいと思わないのか。

選挙権もなかった頃の当時の自分には到底理解できなかった。

母方の実家は創価学会である。

創価学会は自身の子供は必ず入信させる、という慣習があるようだが、わが家は父親が入信していない影響もあってか、私に宗教活動をさせることはなかった。

それでも、思えば昔から、見知らぬ人が家にやってきては「ありがたい話を聞きに行こう」と誘われたものだ。思春期の少年に「ありがたいお話」なんて歌い文句、誰が乗るものか。「あなたの名前も名簿に載っているのよ」なんて言われた日には、勝手に載せるな、と心の中でイラついていた。

当時はあまり気にも止めていなかったが、彼女とのお付き合いの中で、そんな出来事を思い出していた。

19歳の頃。

慕っていた従兄弟がバイク事故にあった。その親族はエホバの証人という宗教に入信しており、エホバの証人では輸血してはならないと言う規定があるらしかった。結果的に死にはしなかったが、彼は死にそうになりながらも最後まで輸血を受け入れることはなかった。

20歳手前、この時点で私は宗教に苦手意識を抱く。

婚前交渉できない、定期的にお祈りしなければならない、輸血してはいけない。宗教における数々の制約はなんなんだろうか。肉を食べてはいけない、とか。

なぜ生活に制限が生じるのを良しとするのか。

決して否定しているわけではない。

自分には受け入れられないだけだ。

一人暮らしをしていた20代の頃。

知らないおばあちゃんが、聖書を持って訪ねてくる。これがまた頻繁に来るんだ。しかも、タイミングの悪いことに、眠たい夜勤明けに起こされることが多かった。丁寧にお断りしても「せめてこれだけでも」と言って小冊子を置いていく。

・・・嫌味じゃないんだけどさ。

ゴミ、増やしたくないんだよね・・・。

つい最近の出来事。

私の妻の叔父さん。

人は良いのだが、なぜか年に数回ある親戚の集まりで、毎回、親族全員に知らない宗教のお布施を要求してくるのだ。金額はごく少額なのだが。

「君達の幸せをおねがいしてくるからね」と。

当然、私も妻も良くは思っていない。

他の親族がどう思っているのかは、何となく聞けない雰囲気。義母からすると、「彼は苦労してきて、その宗教に助けられてきたの。お布施くらいしてあげようと思っているの。」と、私たち夫婦の分をまとめて支払い、署名もしてくれている。

彼が信仰によって助けられたのは素晴らしいことだと思う。ただ、それは私たちには関係がない。義母が支払いをしてくれているとはいえ、自分たちの署名がされ、得体の知れない宗教団体に資金が行く、というのが、なんとも受け入れられないのだ。

散々お断りの旨を伝えようと考えたが、義母には大変お世話になっているので、今のところは抑えている。

この宗教関連によって、私だけかもしれないが、良好な親戚関係に僅かな隙間が生じているのである。目に見えて著明な問題ではない。歯痒い、気持ちの悪い、奥歯に挟まったなんちゃら、スマホのフィルムに挟まって気泡を生みだすホコリのような感じ。繊細ゆえに、取り除くのにもリスクがある微妙な問題。

これからも残り続けるであろうホコリだ。


おばあちゃんの件もそうだったが、布教活動する人達に共通するのが、全く悪気がないことだ。なんだったら我々の為と思って善意で行動している。

これはもう、扱いきれない。

邪険にできないもの。

本当に心底思うのは、宗教って繊細すぎて、扱いにくいんだよね。人格形成にすら関連してるから、むやみに否定できないし。


そんなモヤモヤ感を抱きながら、宗教学の本を手に取っている自分にはきっと「怖いもの見たさ」みたいな野次馬心があるんだと思う。


それもなんか変な感じだ。





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